愛に生きる

日常生活から少し離れて内省の時間にふと浮かんだ思いを記します。

光の宗派

 

前年12月にお寺参りをした時に聞いた話です。親鸞聖人を慕う人々が仏法を学ぶ集まりを行う際に本尊が必要ですがどうしたらいいでしょうかと親鸞聖人に問うたとき、親鸞聖人はしばらくの間考えて文字を本尊にすることに決めたそうです。正確には名号です。浄土系の宗派では阿弥陀如来を崇めますが、普通なら絵像や木像を本尊にするものの、真宗で絵像や木像を本尊にすれば信者たちが臨終来迎を求めてしまうと親鸞聖人は思ったそうです。そのためしばらく考えてから文字=名号を本尊にされました。親鸞聖人の真筆が10近く残っているそうなのですが、その中に三種類の名号があるそうです。一つは南無阿弥陀仏で、一つは帰命尽十方無礙光如来、そしてもう一つは忘れてしまいました。

 

南無阿弥陀仏はインドの言葉の音写です。「ナモー ミダ― ブッダハ」だったかそういう音です。日本語の意味はありません。そしてその意味を意訳したものが、おそらく中国においてなされたのでしょうが、それが帰命尽十方無礙光如来です。「十方のありとあらゆるところを何からも妨げられることなく包み込む光である如来に帰命し奉る」という意味です。つまり阿弥陀様の実体は光だったのです。帰命尽十方無礙光如来という御名は知っていましたが、これが南無阿弥陀仏という御名の原義だということは初めて知りました。法蔵菩薩が仏になって阿弥陀様になったという話ばかりが私の頭の中にあったからです。浄土系の宗派、特に臨終来迎を説かない真宗は光を崇めていたわけです。

 

例えば『弥陀如来名号徳』という親鸞聖人の書物には、無量光、無辺光、無礙光、清淨光、歓喜光、智慧光、無対光、炎王光、不断光、超日月光等々の御名=名号の解説がされています。すべて光に関するものです。これらはすべて光のさまざまな性質を思い浮かべさせてくれます。

 

真宗特に親鸞聖人が光を崇めていたということを知って、親鸞聖人を見る目が変わったのは確かです。人は心の奥底まで光に照らされているということを自覚して生きなさいという教えは、私にはかなり現代的な感じがします。私は普段光明瞑想をしています。体も心も光に照らして、最後は自分が光であることを瞑想するのですが、これはそのまま真宗の教義であるといえなくないことはありません。私は普段ガヤトリーマントラを唱えていますが、これは太陽神=光を瞑想しますというマントラでもあります。私は常々光明瞑想とガヤトリーマントラを多くの人に勧めてきたつもりですが、それは光が普遍的であるからです。そして最近阿弥陀仏の意味が光であることを知り、真宗の教えに従うことと、光明瞑想をすることと、ガヤトリーマントラを唱えることが一つの同じことであるという自覚に至りました。私は知ってか知らずにか、光の宗派に属していたのです。そもそも私は聴覚系の人間ではなく視覚系の人間で、若い頃から光を特別な存在だと思ってきました。

 

光明瞑想をするとき、最後に光と一つであることを瞑想しますが、一口に光といっても、無量光、無辺光、智慧光、炎王光など、さまざまに瞑想できるということを学んだのは最近のことです。光を超越者として選ぶならば、太陽に照らされている昼間は超越者のもとで生きることです。意識の光=アートマの光に焦点を当てるなら、自らのすべては光の内にあります。自らが常に光に照らされていると自覚するならば、いつも超越者の懐にある安心感があります。電化製品にとっての電気のような働きを、光は人間に対してなしていると思うならば、人間は一つの機械であり、それは全託ということの一つの意味です。

 

このように阿弥陀様が光であると受け取ることで、真宗の教義が今までにない新たな意味を持ち始めた今日この頃です。多くの人がこのことを知れば、仏教ここでは浄土系の宗派がおもしろいことを主張していると思うようになり、宗教に親しむきっかけになるでしょう。ちなみに阿弥陀様が光であることを教えてくれた方は、「他宗教は信じる宗教ですが、仏教は目覚める宗教です」とおっしゃっていました。