神格と徳
サイババはしばしば"Love is God, God is Love, Live in Love."(愛は神です。神は愛です。愛に生きなさい。)とおっしゃいます。このサイマントラを少しばかり長い期間憶念していて、今日書くようなことに思い至りました。神格deityと徳morarityに関してです。
お釈迦様はバーラタ(インド)3大賢者の1人とされることがありますが、お釈迦様がなしたことは不二一元を生き、それを道徳的に語ったこととされます。お釈迦様は無用な議論になることを避けるために、神の存在について語ることはほとんどなかったようです。不二一元は哲学的にも宗教的(神という文脈)にも語ることもできますが、お釈迦様は道徳的に語られたのです。お釈迦様の特に阿含経あるいは小乗的な経典を読むと特にそれが伝わってきます。(岩波文庫に入っている中村元氏のものがそれにあたります)
バーラタの神々の体系といえばブラフマー、ヴィシュヌ、シヴァの三大神があって、他に女神様やガネーシャをはじめとしたヴェーダの神々があります。主な神々は33くらいなのかもしれませんが、バーラタでは万物が神とされますので、その数は何万、何億といわれることもあります。一方徳を取り上げれば、愛を中心に、主に言葉に関係する真理(真実)、思いに関係する平安、行動に関係するダルマがあって、また霊性における最高の格言とされる「自分がされて嫌なことを人にしてはならない」という非暴力(対人関係や世界との関係)があります。サイババはこの5つを主要な人間的価値として多くの人に教えています。この5つの他に、寛容や忍耐、協力、親切、感謝などなど徳とされるものは7,80はあるとされるようです。儒教も徳で体系づけられたものです。神々の体系が人の生活の支えとなるように、徳の体系も人の生活の支えとなります。宗教的か道徳的かという違いはあり、どちらを好むかは人それぞれでしょうが、この2つの体系には似たところが多くあると思います。
いわゆる半神を好まず至高神のみを崇めたがる人がいるように、いわゆる道徳を好まず自然や感性に従った一元性を好む人もいます。どちらもその人の個性です。私は半神は唯一の神=存在と関係を築く上での一つの窓口と思っているので、好みの半神があってそれを崇める人に悪い気持ちはありません。日本にもお釈迦様ご本人を崇める方や阿弥陀様を崇める方、大日如来を崇める方がいて、どの御姿御名を崇めても尊いと思っています。道徳に関しても特定の徳目を他のものよりことのほか大切にする人がいますが、それも人それぞれでいいと思っています。
徳の涵養ということについて考えてみたいと思います。
It is said that man should offer leaves, flowers, fruits and water to God. But man should know the inner meaning of these offerings. What does the offering of leaves to God mean? It is not the leaves of different plants. The leaf symbolises the body with three qualities of Sattwa, Rajas and Tamas(serenity, passion and sloth). We offer flowers also to worship God. It is not the flowers that we buy from the market, but the flower of the heart that blossoms and blooms which should be offerd to the Divine. What does the offering of fruit mean? It is not the fruit that we eat. It is the fruit of good qualities that grow on the tree of human life. It is the fruit of mind that we should offer to God. We offer water, but it is not the water of a lake, tap, rain or river; it is the tears of devotion to God. So, leaf, flower, fruit and water are all symbolic.(Sanathana Sarathi August 2022 p5)
ここで注目したいのは、What does the offering of fruit mean? It is not the fruit that we eat. It is the fruit of good qualities that grow on the tree of human life. It is the fruit of mind that we should offer to God.(果物の捧げものとは何でしょうか?それは私たちが普段食べる果物ではありません。それは人間の生活という木に成長するよい性質という果物です。それは心(マインド)という果実で私たちはそれを神にお捧げします。)
人のマインドは人それぞれで癖があったり、形があると思います。置かれた状況次第でいろいろな形をとると思います。それらの1つ1つの形というのは実は人間の徳の1つ1つ(場合によっては悪徳の1つ1つ)に対応していると思います。青い果実もあれば、熟した果実もありますので、粗雑な心(マインド)もあれば円熟した心(マインド)もあるでしょう。しかし心(マインド)はある意味徳(あるいは悪徳)に対応しています。心(マインド)の形成は徳の涵養に関係します。
最近はそれほどではありませんが、私はサイババの御講話をたくさん読んできました。考えること、インスピレーションを受けることが山のようにありました。たくさんありすぎて心が飽和してしまい、私の能力、器では対応できなくなったほどです。そんな私にとって、サイババの御講話の1つ1つの文はマントラではありますが、同時に神格を帯びたものです。1つの文に書かれていることを熟考してそれを実践に移すには心(マインド)の変容が必要です。そしてさらにそれを実際に生活の一部に取り入れ絶えずフィードバックを繰り返すことで、徳が身につくと同時にマインドが円熟します。それは神性の部分的な獲得です。
30年前はサイババの意義を今ほど理解していませんでしたが、今振り返るに、わからないことが多かったながらもサイババの御教えに従ってきてよかったと思います。私はまだ不十分、不完全な人間ですが、30年ばかり歩んできた何かはあると思っています。一応仏教国であるとされる日本の文脈においてサイババの御教えを理解してきましたが、他の国、他の文化ではまたさまざまな受け取りがあろうかと思っており、それらがすべて花開くとどのようなものになるかしらと想像することがあります。おそらく全人類が新たな人生を歩むに十二分なものが得られることでしょう。