愛に生きる

日常生活から少し離れて内省の時間にふと浮かんだ思いを記します。

今年の目標

 

明けましておめでとうございます。2021年がやってきて最初の記事ですので、毎年同様まずは今年一年の私の目標を書いておきたいと思います。昨年の最後の記事で、昨年の目標「自分の家と周囲の環境を清潔に保ちなさい。あなたと社会に健康と幸福が約束されます。」はもう一年かかると触れました。もちろん、家や周囲の環境を片付けて次なる人生のステップに踏み出す準備をするつもりでいます。しかしこれは状況次第では半年で目処がつく可能性もなくはなく、今年のサブテーマとするつもりです。例年はサブテーマをもうけなかったのですが、今年は例外的にサブテーマを設けることにしました。

 

今年の主なるテーマですが、少し考えたのですが、正月が明けてから心を占めていたことがあり、それにすることにします。今年は珍しく真宗の言葉に関係するテーマです。ー「雑修は雑縁をもたらす」を心に留め置くー、が今年のテーマです。真宗のことに詳しい人以外にはわかりにくいので解説をしておきます。真宗では阿弥陀様の御名を唱えること「だけ」が勧められていて、それは一向専修といわれます。特に同じ浄土門の中で浄土宗との違いを強調する際に「専修、雑修」がいわれることが多いような気がします。つまり雑修とは御名を唱えること以外の行を意味しています。

 

私は私の年齢でそれなりには真宗を理解してはいると思いますが、それでも正統な教義から外れた理解をすることが多々あります。なので、「雑修は雑縁をもたらす」に関しても、自分の理解をもとに実行することになります。正統な教義の理解というわけではありません。専修というのは阿弥陀様の御名を唱えることですが、その本質は阿弥陀様を憶念することです(ただし場合によってはこれも正統な教義ではありません)。なので阿弥陀様を憶念しながらなすことはすべて専修であると私は受け取ることにします。ならば「雑修は雑縁をもたらす」をどう理解するか? 愛する御名・御姿を憶念することなく行うことはすべて雑修であり、そのような行為がすべて不届きであるわけではないのですが、本来的でない雑縁を作りかねず、人生を歩む上での妨げとなりうることをしっかりと理解しておきたい。これが―「雑修は雑縁をもたらす」を心に留め置く―というテーマで意味したいことです。

 

詳しい文言は忘れましたが、道教にも「自分と関わりのない霊的な教えと交わると身に危険をもたらすことがある」というような言葉があったはずです。人はそれぞれ心惹かれる御名と御姿があり、また心に響く御教えがあるものです。それは自らの本性が求めるところのものであるのでしょうから、それに従うのが長い目で見て最も好ましいと私は思うのです。まずは心に訴えかける御名、御姿、御教えにとことん従ってみる。それで十分に心の満足が得られれば、他の御教えなどに目を向ける必要はありません。井戸を掘るにも一箇所を掘り続けてこそ地下を流れる水に到達できるというものです。そして水が湧き出てくればもう他に井戸を掘る必要はないわけです。自分が従おうとするもの以外がよくない宗派であるというわけでは決してありません。自分にとって自然なものに従うのが最も良いということをいいたいだけです。

 

また―「雑修は雑縁をもたらす」を心に留め置く―というテーマは、心が欲望に従ってあちこちさまようのを少しでもコントロールしたいという意味も私は含めています。気をつけないと、欲望は雪だるま式に増えていくものです。このことへの戒めもあります。

 

まとめますと、今年のテーマは―「雑修は雑縁をもたらす」を心に留め置く―です。そしてサブテーマとして昨年し残した「自分の家と周囲の環境を清潔に保ちなさい。あなたと社会に健康と幸福が約束されます。」を取り上げます。両方とも大きな課題ですので、今年一年で満足にやり遂げることができるかわかりませんが、挑戦していくつもりです。

 

皆様も、年頭の抱負・目標があると時間を無駄に過ごすことなく、方向感覚をもって生きていけると思いますので、考えてみられるのをおすすめします。またこのブログを読んでくださる方々(それ以外の方々もです)が健康で平安な一年を過ごされますことを祈念いたします。どうぞ一年よろしくお願いいたします。