愛に生きる

日常生活から少し離れて内省の時間にふと浮かんだ思いを記します。

仏国土

読んで下さっている方から見ればいつも根拠の薄いようなことを書いていますが、いつにもまして今日は根拠の薄いことを書きます。体験の裏付けがあまりなさそうだという意味で根拠がないことです。仏国土についてです。
 
私はこのブログでは霊的なことに関してさまざまに書いていますが、一応仏教徒真宗門徒)です。お経などにも少しは親しんでいます。真宗では阿弥陀仏を崇めます。親鸞上人が書かれた正信偈には、法蔵菩薩がさまざまな仏の浄土を見て、その上で独自の願を立てたとあります。その願が実現せねば涅槃に至ることはないと誓われたのですが、願が成就し法蔵菩薩は涅槃にいたり阿弥陀仏となられました。真宗では浄土といい、阿弥陀仏以外の仏様もそれぞれの浄土に住まれているようです。この浄土というのは仏国土といっても差し支えないでしょう。つまりそれぞれの仏様にはそれぞれの仏国土があるわけです。このことはキリスト教イスラム教から見れば少し変わっているのかも知れません。唯一神の唯一の世界ではなく、仏様が多数存在していて、それぞれに仏国土があるのですから。
 
先週は人間の義務について書いたのですが、その中で原因体という言葉を用いました。5つの鞘に当てはめると至福鞘に相当する人間の体の一つです。私はこの原因体について十分に理解してはいないのですが、もしかしたらですが、仏国土はこの原因体によって作られているのではないかとふと思ったのです。原因体より上のものはアートマで、アートマはこれこれこういうものと指し示すことができないものですから、アートマの領域に仏国土というものがあると私は受け取らなかったわけです。
 
法蔵菩薩の場合は五劫もの長い間にわたって思惟してきたといいます。思惟という言葉も難しい言葉ですが、私個人が用いる言葉では憶念に近い意味かなと思っています。一般の思考や識別とは異なるのかも知れません。私は世には肉体労働、知的労働、感情労働の他に精神労働というものがあると思っているのですが、憶念や思惟というものがその精神労働に値するとしてもよさそうです。精神労働の本質は何らかのものを媒介にして至福を味わうことでしょう。
 
一方でソウルメーキングという言葉もあります。魂を形作る作業のことを意味します。若い頃は財や地位を築くために働いていますが、年をとって振り返ってみると、一生の間に人がしていることはソウルメーキングに過ぎないという見解もあります。人は人生におけるさまざまな機会を活用して魂を形成している、それが人生というものだということです。
 
法蔵菩薩は長い間思惟を重ねて浄土を作り上げました。そこには貧富の差や地位、知性の程度に関係なく、すべての人を受け入れます。この世では貧困や暴力のない世界の実現は政治の課題とされ、長い間その試みがされてきましたが、その理想主義の最たるものが阿弥陀仏の浄土では実現されています。阿弥陀仏への信仰があれば、阿弥陀仏からの働きにより、人はその浄土へおもむくことができるとされます。
 
仏様でなく普通の人でも、各人にはそれぞれの世界があって、何となくその人の世界に惹かれてその人の周りに人が集まることがあります。おそらくはその人の世界というのは、その人自身ですら知っていないその人の原因体の有り様なのかも知れません。人が死んだ後の世界にはそういうもの(原因体=仏国土)があちこちにあって、人は縁のあるところに導かれている可能性はあります。
 
サンスクリットの祈りに「サマスタローカ スキノー バヴァントゥ」というものがあります。ローカは世界でサマスタはすべてのという意味です。すべての世界が幸せでありますようにという祈りです。人それぞれが原因体という世界をもっていて、そのすべての世界が幸せでありますようにという祈りではないかと私は最近受け取っています。
 
いつにもまして今日はおとぎ話のような感じの話を書きました。仏教では各人は仏であるといいますし、上に挙げたようにソウルメーキングという言葉もあります。そういうたぐいの世界=仏国土の建設に人は携わってみるのもいいのではないかという気がしています。私は原因体というものがよくはわかっていないので、できるかぎり愛という言葉に従って生きていこうと心がけるしかありませんけど。