約1年前に「ギータ(あるいはヴェーダ)」と題してヴェーダに関して当時思っていることを書きました。それから約1年たち、たまたま最近またヴェーダに関して書いてみようという気持ちになりましたので、今回分量としてはわずかですが書いてみました。ヴェーダというのは人間が考えたものではありません。やってきたものです。やってきたものを特定の表現形式によって固定したものです。人間の発達度によって用いる形式はさまざまでしょうが、どの人にもそれは「やってきている」と私は思うのです。人間の耳がごく弱い音を感知しないように、心や頭が騒がしい人はそれをなかなか感知できないだけです。
TwitterでRumiの言葉として次の引用を見かけました。
"The message behind the words, is the voice of the One."
(言葉の背後のメッセージは唯一者の声です。)
私はこれに対して
「字面・音面とは必ずしも一致していなくても、ある種の言葉から何かが伝わってくることがあります。それは(その言葉を発する人!?の内なる)神の声だと。それはヴェーダと呼ぶこともできるでしょう。(ヴェーダのそもそもの定義)」
と引用リツイートをしたのですが、目に見える文字や耳に聞こえる音そのものではなく、キャンディーの包み紙がキャンディーを包むように、文字や音が包み込んでいるものがあるはずなのです。通常それは意味といわれることがほとんどではありますが、ヴェーダともなるとその解釈(意味)は一通りではありません。さまざまな解釈の可能性が厚い層をなしているものです。また私は引用リツイートで神の声をヴェーダの定義と書きましたが、そのようにいう識者はいるだろうものの、より正確にはヴェーダは神の呼吸といった方がいいと思います。
また同じくRumiの言葉で次のようなものも見かけました。
"There is a voice that doesn't use words. Listen."
(言葉を用いない声があります。耳を傾けてください。)
Rumiは日本ではあまり知られておらず、またあまり彼に関する本も出版されていませんが、私は少し彼に関心をもっています。イスラム教を背景にもつ聖者とされています。Rumiは言葉と声を明確に分けています。言葉を用いない声が自然界に満ちているような自然の音に似ているのか、あるいは沈黙という音なのかはわかり難いですが、voiceという単語がよく出てくるので、この単語の意味を調べてみました。すると次のような意味がありました。voice implies expression in words です。つまりvoiceはimply(暗示)するものなのです。それを聞くと言葉で表現したくなるもの、言葉でどのように表現できるだろうかと人を促すものなのです。
多分白川静氏の言葉だと思うのですが、次のようなものもあります。
「神の訪れは、夜更けた暗黒のときに、ひそかな「音ずれ」として示されるのである。そのようにひそかに暗示されるものを【音】という。闇黒とはただ光のない世界というだけでなく「神の音なふ」世界である。」
音ずれです。何かがずれて音が生じるのを私はイメージしました。人間が存在しています。存在です。その存在は目に見えませんが、地殻が変動するように動いているのでしょう。その存在に「ずれ」が生じます。それが人間に感知されれば、それはヴェーダといえるのかもしれません。人間存在の構造に関係するものだからです。
存在(アートマ)に根差し、人間の五感で見たり聞いたりできず、また心の五感ですら感知できないかもしれず、しかしそれが意識に届いたならば人間にそれを何らかの表現で確保するように促すもの。それが多分ヴェーダのまた一つの定義になりうると思います。私は20歳ころに苦悩の果てに自分の日本語の文体を身につけましたが、それと同じように、ヴェーダを表現するのに必要な形式も苦労して身につける必要があるかもしれません。
私のブログの記事は2000字前後のものが多いですが、私を書くように促したインスピレーションは、短い文でほんの10行に満たないものでしょう。そのほんの10行ほどのものを、何の尾ひれもつけずに書き記しておけば、それはよりヴェーダに近いものといえるのかもしれません。このようなことを最近思いました。