高校生の文化活動への関心

 

ここ数年の私の生活を特徴づけることの一つに、高校生の文化活動への関心があります。主に高校演劇、絵画などの美術、文芸作品、音楽、登山などです。私の甥が高校生の時に演劇部に入っていて、彼の演劇公演を見に行ったのが高校演劇へ関心をもつきっかけでした。また時々ですが、美術館に高校生の描いた絵を見に行ったり、高校生の文芸誌を読んだりしています。吹奏楽や軽音楽はまだほとんど聞きに行ったことはありませんが、それらの公演も一応チェックしていて、時間が許す限り足を運びたいと思っています。登山に関しては、山アプリで高校生をフォローしています。

 

若い人、特に高校生に関心をもつのはそれなりに理由があります。何といっても高校生の活動は理解できるからです。私はさまざまなことに関心をもっていますが、その多くの知識レベルはせいぜい高校生レベルです。私が書くものに関しても同じくそのほとんどは高校生レベルです。大学以上のレベルはわかるものはありますが、人間としての息吹があまり感じられない無味乾燥なものが多く、心がなかなかひかれません。高校生の表現は私にはかなり伝わってくるものがあります。現代の教育の現状を見るに、中学生や高校生辺りがもっとも純粋なのではないかと思ったりもします。また私は若いころに40歳年上の森毅氏や河合隼雄氏の影響を受けました。たまたま影響を強く受けた人が40歳年上だったわけです。40歳も年が違えば人生の時代背景がまったく異なりますし、しかしながら同時代を生き、時代の連続性もあります。40歳違いというのは意外に適度な距離感をもって接することができるのではないかという気がしています。そして私の40歳年下は現在の高校生にあたります。私と同年齢や年上を見ても、未来を感じることはほとんどありません。私より10歳、20歳くらい下の人たちはもうすでに独自の道を歩んでいます。40歳下の人たちにはさまざまな可能性を感じます。彼・彼女らのさまざまな活動を見ていると、私の世代との連続性と距離感の両方を感じることができ、今の時代がよりよく見えてきます。これらが高校生の文化活動に関心をもつ理由です。

 

特に高校演劇はとてもおもしろいです。かつて私は劇の脚本は天才にしか書けないという俗説を信じていたのですが、今は高校生自身が多くの脚本を書き、それに基づいた劇に引き込まれることは多々あります。私のようなそちらの才能のないものから見れば、彼らは皆天才です。15年くらい前にお金を払って商業演劇を見に行ったことがありますが、たまたまでしょうがそれが単なるドタバタ劇で何もおもしろくなく、演劇から遠ざかっていました。また20年近く前になりますが、知り合いに劇団関係者がいて、軽い表現でしたが、私に劇に関心はないかと聞いてきたことがあります。当時はほとんど関心はありませんでした。今は違います。神楽を含め演劇への関心が今のように高まるとはかつて思っていませんでした。高校演劇はあくまでも教育活動の一環でしょうから、公演は無料で見れます。しかしその質の高さを思えば、運営費としてある程度の額を寄付したいといつも思います。会場に寄付金箱を置けばいいのにと思っています。

 

演劇はコンテストなので、地区大会から県大会、そして中国大会や九州大会、さらに全国大会への選考を兼ねています。演劇には演技や脚本、演出などの要素があり、それらを考慮したうえで優秀校などを選んでいるのでしょうが、私はそういううまい下手はほぼわからないので、純粋に高校生の演技から伝わってくるものを楽しんでいます。私がいいと思った高校は最優秀賞を取ることはありませんが、優秀賞を取ることは多いです。それはそれでいいと思っています。

 

人生そのものが演劇で、この世界そのものが舞台ですから、高校生の演劇から学ぶことは多いです。そもそも高校生自身もなぜ自分たちが演劇部で演劇に携わっているのかわからなくて、演劇や演劇部に関する演劇をすることが結構あります。それは自らの活動を問う作業なのでしょう。そういう演劇を見ていて学んだことは、まず一つに演劇は競争ではないということです。演劇大会はコンテストを兼ねていますので賞がつきますが、優劣とかいい悪いとかそういうものは演劇の本質に関係しないわけで、それよりもきちんと演じることが大切だということです。人生もそうですね。ほとんどの人が望んではいませんが、悪い役不名誉な役は皆演じたくはありませんが、どうしてもそういう役割の人はいます。また本人はいいことをしているつもりでも結局悪い役回りを演じていたという人もいます。第二に演劇ではト書きの通りになるということです。高校生は実生活の上でいろいろな問題や悩みを抱えているでしょうが、舞台上では現実生活に背景をもつにしても別世界を演じます。そして別世界でありながら、優れた演劇は現実世界への何らかの効果をもちます。演劇の世界におけるト書きは演劇の世界では絶対的で、演技によってそれを実現しますが、それは現実世界を変えうるカギともなりえます。そういう可能性があるとここ数年高校演劇を見てきて感じています。ちなみに私にとってはこの世界という演劇におけるト書きはサイババの言葉になります。(たとえばBe happy.などなどです。)この世界に生きるということは、一面現実にもまれることであり、一面演劇世界を生きることでもあります。両者は別々のようでもあり、一つでもあります。

 

高校生の文化活動に限ったことではありませんが、演劇にしろ美術にしろ、文芸にしろ、エゴのないものは作品自体が記号となっていて、鑑賞するものをどこか余計なところに引きずりこむ粘着性がありません。こういう意味で、高校生の文化活動が大人の文化活動に劣っているとは決していえません。ミュゼ活というのでしょうか、高校生以外の文化活動に目を配るのはいいですが、高校生の文化活動に目を向けるのも興味深いと思いますので、関心のある方にはお勧めしたいです。希望や勇気、未来を感じることができます。