愛に生きる

日常生活から少し離れて内省の時間にふと浮かんだ思いを記します。

ガネーシャ神の恩寵

 

以前書いたことの繰り返しになりますが、私の宗教は浄土真宗阿弥陀様を崇めています。しかしながら阿弥陀仏は真如から現れた報身だと聞くこともあり、私はその真如に関心をもっています。真如は真理のことで、他宗教のいう神、ブラフマンに近いところの概念でしょうから、私に一神教的な傾向があるのは否めません。加えて霊性の道を歩む上で師を崇めています。本来はそれで十分なはずなのですが、私は運良くヴェーダを学ぶ機会があって、これは古代に日本に仏教が伝わってきたのと同じくらい歴史的に意義のあることですので、ヴェーダを可能な範囲で大切にしています。ヴェーダを学ぶ上で欠かせないのがガヤトリーマントラで、ガヤトリー女神も崇めているわけです。ただヴェーダに関わらずガヤトリーマントラは万人にお勧めです。それとは別に私はガネーシャ神の恩寵も受けていると何となく感じています。私のこのようなあり様は、日本ではあまり一般的ではないわけですが、現実に今私はそういう状態なのでどうのこうの申し開きができません。

 

ガネーシャ神を熱心に崇め、礼拝しているというわけではなく、私がこれまで霊性の道をたどる中で行ってきたことが、ガネーシャ原理にまつわることが多かったというだけのことです。それゆえに、ガネーシャ神の恩寵、つまり知性や英知、言語能力、進取の気質などに少しばかり恵まれてきたと思うのです。

 

シヴァ神パールヴァティー女神、ガネーシャ神、スッブラマンニャ神は家族とされていて、ガネーシャが兄、スッブラマンニャが弟です。あるとき、シヴァとパールヴァティーの両親が二人の息子に世界を一周するように命じ、競争に勝って先に戻ってきたものに褒美を与えるといったそうです。スッブラマンニャの乗り物はクジャクで、ガネーシャの乗り物はネズミです。スッブラマンニャは急いで世界一周の旅に飛び立った一方、ガネーシャは早く進むことができません。そんな困った時にナーラダ仙がやってきてアドバイスをするには、「両親の周りを回りなさい。子にとって両親は全世界そのものです。」といったそうです。それに従ってガネーシャシヴァ神パールヴァティー女神の周りを回り、世界一周をしてきましたと報告すると、シヴァ神パールヴァティー女神はそれを認め、勝者はガネーシャ神であると宣言しました。

この話にはもう一つパターンがあって、シヴァ神パールヴァティー女神の周りではなく、ラーマ神の名を書いてその周りを回りなさいとナーラダ仙からアドバイスされたという話があります。ラーマ神の御名には全世界が含まれているとされています。このラーマ神の御名のパターンでもガネーシャ神が勝者だとされます。

 

どちらでもいいのですが、私はこれまであくまで自分なりにですが、両親に対してできるだけ尊んで接してきました。そして同時に宗派が真宗であることもあり、御名を生活の基盤においているのも、あくまでも可能な範囲でですが確かです。両親を尊ぶことと御名を尊ぶことはかなり生活の中に入り込んできました。

 

先にも触れたようにガネーシャ神の乗り物はネズミです。ネズミは暗く狭いところに生息しています。霊性の領域というのは、世間一般の人から見ればそれと同じようによくわからなく窮屈な暗い世界です。私はある意味そういう世界に生息しています。

 

ガネーシャ神の頭は象ですが、象は一般に牙が2つあるにも関わらず、ガネーシャ神の牙は1つです。それはoneness, unity(一つであること)を象徴しています。また一点集中の知性も象徴しています。普通の人は証拠がないと何かを適切に信じることはほぼないわけですが、一点集中の知性を備えている人は証拠がなくても正しいことを適切に理解できます。私は長年にわたって霊性の道を歩んできて、すべてが一つであることに関して今現在少しばかりですが理解があると思っています。また私は汎神論的な傾向が若い時からあったのですが、その延長上を生きているともいえます。

 

ガネーシャは別名ガナパティといいます。ガナのパティ(主人)です。ガナにはいろいろな意味があるのでしょうが、ここでは次のように解釈します。つまり、5つの行動器官(手、足、舌、生殖器官、排泄器官)、5つの感覚器官(視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚)、5つのプラーナ(生気)、マナス(マインド)、チット(記憶)、ブッディ(知性)、フリダヤ(ハート、エゴ)などをはじめとする心身の諸器官のことです。私は日常的に光明瞑想をしていますので、これらを可能な範囲でコントロールしようと日々努めています。

 

つまり私は、1.両親を尊び、2.御名を生活の中心にし、3.霊性の領域に生き、4.oneness,unity(一つであること)の体験を深め、5.心身の諸器官をコントロールするよう努めているわけです。ガネーシャ神をことさら意識してきたというわけではないのですが、振り返ってみればガネーシャ原理を実践してきた自分がいます。少しばかり中途半端なところもありはするのですが。そのおかげもあって、ガネーシャ神に守ってもらっているように何となく感じるわけです。他にもガネーシャ原理はあるでしょうし、私以外にもガネーシャ原理を知らずに生活に取り入れている方もいるでしょう。ガネーシャ神は私にとって意外に身近な神様です。