愛に生きる

日常生活から少し離れて内省の時間にふと浮かんだ思いを記します。

無心について

 

無心という言葉にはいくつか意味があるようです。1.無邪気である。2.意志、感情などの働きがないこと。3.心の働きが休止していること。などが主なところのようです。禅などの仏教では3番目の意味で使われるのでしょうか? この無心についてかつて聞いて刺激になったことを今日は書き残しておきたいと思います。ほんの些細なことですが、人によっては意義を感じることもあるはずです。私が触れたいのは主に3番目の無心についてです。つまり思考がなく揺らがず「計算」をしていない状態の心についてです。

 

私は邪念というか意図しない想念が多かった人間でした、つまり心が汚れていた人間でしたので、それに振り回された時期もあり、長く無心を目指していたところがあります。私が思い描いていた無心とは、座禅で座っていて想念や思考の働きがまったくない状態のことです。人間一般、多くの人が思考や想念があまりない状態にあるのではないかと若い頃の私は想定していましたが、いろいろ人の話を聞く機会があって、そうではない、むしろ絶えることのない思考の状態にある人が多いということを後に知るようになりました。そういうことを知らない時分の私が無心を目指していたのは、思考が少なさそうな他の人並みを目指していた面もあります。

 

無心になるには日本では座禅でしょうが、私は日本の座禅(ただ座るだけ)に取り組むことはせずに、光明瞑想というものに取り組むことになったのですが、これは集中・黙想・瞑想の3つが組み合わさったものです。これに比較していえば、日本の座禅は集中と黙想がなくいきなり瞑想を目指す取り組みに見えます。光明瞑想について簡単に触れておきます。これは光を瞑想の対象とするものです。まず座って呼吸や御名、マントラなどに集中します。散らばっている意識を落ち着かせる作業です。次に黙想の段階に入ります。目をつむり光を眉間から体内に取り入れ、体の隅々を光で照らし、光を頭頂部から外に出したあとは家族・親族・知人などなど自分の周囲の存在を光で照らしていきます。最後に瞑想の段階に入りますが、これがいわゆる心が無になる(実際には光を味わっている)状態です。この集中・黙想・瞑想の組み合わせが光明瞑想です。

 

思考や想念がまったくない無心を目指していた時期が長くありました。それは光明瞑想を続けることである程度達成されはしました。瞑想をしている時間だけでなく、日常生活においても思考はぐんと減り、想念というおかしなものに生活が妨げられる苦しみは減りました。これはこれでいいことなのです。しかし完全に100%の沈黙を達成したかどうかといえば怪しくはあり、人間の体のどこかがいつも動いているように、心もわずかなりともどこか動き続けていました。それでも今後長く瞑想などを続けていけば100%の無心が達成されることがあるのかもしれませんが、今の時点でそれはわかりません。

 

今日触れたいのは次のようなことです。一般に宗教活動では、神仏の御名を唱えたり、真言マントラを唱えたり、賛歌を歌ったり、神仏の像に礼拝を捧げたり、人の講話を聞いたりしています。これらの活動をしている時に心は機能していることが普通です。御名を唱えるとき、その意味を思うことがなければ、テープレコーダーと何ら変わりないですし、たとえばキリスト教徒が賛美歌を歌っているとき、歌詞と旋律に身を委ねて心からあふれる感情を神に捧げています。これらの活動に携わっているとき、心はいわゆる無ではありません。にもかかわらず、心が神仏を思っている時には心が機能していても無であるに等しいと教わったのです。心の活動がまったくない状態を目指していた私には結構衝撃的でした。この定義によれば、光明瞑想の黙想段階は愛の行為であり心が無であるといえるわけです。

 

今思うのは、心をまったくの無活動にするのはある意味不適切で、心はどうしても動いてしまうのですが、心を活動させる際には神仏をその目的にするのがふさわしいというのが一つの意義です。また一つは、心を外界から引き離すことが心を無にするということの意味であろうことです。心が外界と関わっているとき、望まなくても往々にして欲望や執着を引き起こします。心をそれらの悪影響から守る必要があるということでしょう。

 

しかし一方で人間は外的な活動を避けることはできません。日々の仕事があります。その仕事をしながら心を無の状態にする一つの方法は、自分の仕事の受け手の内に敬愛する神仏を見て活動を捧げることです。これはいわゆる奉仕というものです。奉仕は無償の行為だけでなく、会社などで報酬にふさわしく勤勉に働くことも含んでいます。

 

「心が神仏を思っている時には心が機能していても無であるに等しい」を無心の定義にすれば、日本の禅に基づいた文化が今以上に発展する可能性はあります。ある精神科医は、日本の戦前のファッシズム(全体主義)の原因の一つに禅の影響があると指摘しています。私には何となくいわんとすることはわかります。今の日本でもそういうところはあるでしょう。事なかれ主義は思考停止のことですし「禅的」ですから。座禅は日本によい影響も与えてきたし、一方でよくない影響も与えてきて、その悪い面を乗り越えるのに、無心の定義を再考するのも意義がありそうだと思います。私が今日書いた定義は奉仕に道を開くでしょうし、禅の作務を発展させたものでもあります。