愛に生きる

日常生活から少し離れて内省の時間にふと浮かんだ思いを記します。

神が働く

 

今日も先週、先々週に引き続きNine Gems(手紙集)の中から心に訴えかける言葉を取り上げたいと思います。

 

Let God work through you, and there will be no more duty.
(神があなたを通じて働くに任せなさい、そうであればそれ以上に義務はありません。)

 

これも言うは易く行うは難しの言葉、理想です。人間の体は動いています。眠っているときにすら寝返りを打ったり、呼吸しています。意識的に行っていることもあれば意識せずに行っていることもあります。神が「私」を通じて働くとはどういうことなのか? 私が日常的に行っている食事や歩行、洗面や仕事、お茶を飲むことなどは一体誰が行っているのか? 自分がしているのではないかとつい思ってしまうでしょう。私は意志が弱い人間と思いますが、それでも何らかの過失で他人に損害を与えたときは、私がその責任を追わなければならないと理解しています。

 

しかしながら少し考えたのですが、例えば次のように考えることもできます。私が日常的に光明瞑想をしていることはこのブログで何度も取り上げましたが、光明瞑想は光を自分の体の各部、そして関わる人たちやすべての存在を光で満たしていき、最後に私が光であり光が私であることを瞑想し、静かな状態でいることです。私の存在すべて、つまり体と心と魂とがすべて光で満たされているならば、自らの存在に闇がないならば、それは神が自分を通じて働いているとみなせないことはないと。光は神なのですから、闇=エゴの余地がないのですから。電化製品に電流が流れれば機能しだすように、自らの全存在が光で満たされているならば、それは光=神によって自らが機能しているとみなすことはできます。

 

このような観点から自分の日常的な行為を観察していると、神が働くといっても特別奇跡的なことや卓越したことを行っているようでもないということに気づきます。少しばかり躊躇するようなことであっても、どこかで踏ん切りをつけて判断を下しています。「私は神である」と見ず知らずの人に向かって主張はしないものの、エゴによって動いているのとも異なります。there will be no more duty. とあるように、ある意味義務的なことが大半であるように見受けられます。少しばかり手を抜いてしまったり、サボってしまいそうなことも、怠けずに行為するよう駆り立てられている気がしなくもありませんが。ありふれた特に難しくもない義務に関しては淡々とこなすことはできるにしろ、たまに決断に困るような難しい局面に出くわすこともあるでしょう。そうした場合には、「光」を選ぶ選択をしなければなりません。

 

真宗には往相回向還相回向があります。真宗においては回向は人がするものでなく、阿弥陀様が人に対してするものです。阿弥陀様が信心を与えてくださるのが往相回向だと受け取っていいでしょう。還相回向についてはあまり語られるのを聞いたことはありませんが、私の勝手な解釈では阿弥陀様が自らを通じて働くに任せること、つまりLet God work through you.に重なります。つまりLet God work through you. は私の宗教の実践上の課題といえます。そしてまさに阿弥陀様=不可思議光仏は光の仏様でもありました。真宗に教義においては、往相回向の後に還相回向があるので、信心を与えられた人こそが阿弥陀様に人生を委ねることができます。これがかねがねいっている帰依=帰命というものです。命がそこに帰すのです。

 

人間にとっての義務がこれだけなら、他のことを思い煩わずにすみ、委ね切ることの困難さはあるものの人生がずいぶんシンプルになります。私には非常に魅力的な御教えであるといえます。繰り返しますが、言うは易く行うは難しですが。