愛に生きる

日常生活から少し離れて内省の時間にふと浮かんだ思いを記します。

今年の目標2023

 

明けましておめでとうございます。私のブログを読んでくださる方々に感謝申し上げます。今年もどうぞよろしくお願いします。できるだけ私なりにある程度質を伴ったものを書いていければいいなと思っているところです。私の理解が浅かったり、わかりにくい文章を公開することもあるかと思いますが、その場合大目に見てくださいますようお願いします。皆様が今年1年希望と喜びに満ち、健康で平安でありますように謹んでお祈り申し上げます。

 

1年の一番最初の記事では毎年その年の目標を掲げています。昨年の年末に少し考えたのですが、今年2023年の目標は「恩寵を生きる」にしたいと思っています。

 

特に若い頃に人の努力は報われると考える傾向があるかもしれません。もちろん何の努力もせずに怠けてばかりですとほとんど何も成し遂げることはできないのですが、しかしながら努力が必ず実を結ぶとは限らないのではないかと年をとると思えてきます。少なくとも自らの努力が自らの望んだ結果をもたらすとは限りません。自らの努力が自らが思いもよらなかった結果をもたらすことは、自分にとってよくないようですが、よくよく考えればよいものなのかもしれません。努力と結果の関係が自らの思惑をこえたものであることを年をとるごとに実感しています。そして自らが望む結果を求めて行為することが、少なくとも意欲においては減ってきます。そうなったときに人が望むのはもしかしたら恩寵=神の介入なのではないでしょうか?

 

「恩寵を生きる」という場合、私には2つの意味があります。1つは今ある恩寵を大切にして生きるということ、もう1つは恩寵を求めてそこから人生を切り開いていくということです。恩寵は英語でgraceといい、例えばamazing graceという歌があります。平たくいえば神の恵みのことです。私は先程も述べましたが、神の介入という捉え方もかなり有力だと思っています。奇跡はそれに含まれるかもしれませんが、私は恩寵という言葉に必ずしも奇跡の意味を多くは込めていません。信仰のない人は単にカルマ(行為)の法則に縛られているだけではないかと思うのですが、信仰があれば少しばかりそれを越えた作用を体験できるというふうに受け取っています。親は他人の子を大切にしておやつを与えるかもしれませんが、それよりも自分の子により多くを与えるものです。親=神はえこひいきをするのかといわれそうですが、あくまでも私の数十年間にわたる実感ですが、神には人が神に求める通りに振る舞う傾向があるのではないかとそう思うわけです。当然それに応じたある種の振る舞いが人にも普段から求められているのですが。取引ということを考えたとき、神仏と取引をするなといわれそうですが、最も確実で効果的なのは神仏との関係に基づくやり取りです。その最大のものは帰依バクティを差し出せば、解放(解脱)ムクティを与えてくださるという取引だとされます。

 

今ある恩寵を大切に生きるということをまず考えましょう。今私にはこの記事を書く時間が与えられています。私が非常に困窮していて時間や気持ちの余裕がなければ、このブログは存在しないわけです。与えられている時間は私にとって明らかな恩寵です。また私の家には少しばかり広い庭があります。十分には手入れしきれていないのですが、それでも何もしなくてもある種の収穫があります。名も知らぬ花ですが、ほぼ一年中何かが咲いています。仏花には事欠きません。柿や梅の実もとれます。野草のお茶も一年中とれます。金額的にはそう大きなものでなくても、恵みは恵みです。特に大都会にすんでいる人だと庭仕事のできる庭がありません。庭仕事をする時間というのは本当に豊かなものです。それを当たり前と思うかどうか人によるでしょうが、私は昨年お腹が空いたときに食べ物がなくてひもじい思いをしたことが一度もありませんでした。高級料理ではありませんが食事は与えられています。住むところもあります。これらは私にすればすべて恩寵といっていいものです。目が見えるのも恩寵です。歩く足があるのも恩寵です。心(ハート)を開きさえすれば私たちの生活は恩寵で満ちています。これらの恩寵を当たり前だと思わずに大切にしたい、これが今年の目標の意味する1つです。

 

もう1つは恩寵を祈り求めて人生を切り開いていくということです。先にも述べたように、人間はおおむねカルマの法則に支配されて地面を這いつくばるようにして生きています。それは誰でもです。おいしいものを食べれば満足する、気のあった友人や異性、家族がいれば満足する、仕事で認められるなどこの世の楽しみはそれなりにあるものの、年をとると少しずつ飽きてきたりうんざりするものです。私はまだ介護を必要とはしませんが、70歳、80歳を過ぎて人の手を必要とせざるをえない人だともっとうんざりするでしょう。いつもの繰り返しのような生活を長く続けて得るものもありますが、ただ単に世俗に生きてばかりいるのではなく、恩寵=神の介入を楽しむ人生はより有意義で至福をもたらしてくれるのではないかと思うのです。アインシュタインは「神はサイコロを振らない」といいましたが、確かにそうではあるのでしょうが、しかし人間の低い立場から見たとき、ある種のゆらぎというか不確実性を求める気持ちは私には少しはあります。完璧な努力はできなかったとしても、大目に見てもらって仕事を受け入れてほしいと思うこともあります。神の介入=神の戯れ(リーラ)の方が人間の思いついたものよりもずっとずっと楽しいに違いない、むしろ人生はそういうものを楽しむためにあるとさえ思うのです。果たしてそういう類の恩寵はあるのかという人もいるかもしれません。何を恩寵と受け取るかはその人の感性にも関係していますので強要はできませんが、私はあると思います。いえ、アインシュタインは「一切を奇跡でないと受け取るか、一切を奇跡と受け取るかのどちらかだ」というようなことをいいましたが、そういうようなレベルの話です。

 

主に今ある恩寵を大切に生きたいと思っています。恩寵を無駄にする人にさらなる恩寵は与えられない可能性が高いですから。恩寵を思うことは感謝の気持ちで神を思うことでもあります。今年はこれを目標にしたいと思います。