"Clear Thinker" is a better complement than "Smart".(Clear thinkerはSmartよりもよい誉め言葉です。)
World belongs to clear thinkers. Fuzzy thinkers provide drag.(世界はClear thinkerたちに属し、あいまいな思考者は足を引っ張る。)
ここに取り上げたclear thinkerという言葉はTwitterで見かけたものです。一般名詞のようではありますが、それ以上の意味が含まれていると私は思っています。日本語に訳せば明晰な思考をする者とでもいえますでしょうか。いわゆる賢いとは異なる概念です。日本にはsmartな人は多くいて、またsmartになりたい人も多くいるかもしれませんが、clear thinkerは少ないのかもしれません。より重要なのはclear thinkerの方でしょう。今日は私なりのclear thinkingのようなものについて書いてみます。
私は何らかのアイデアをTwitterやブログで書いていますが、それらがどのようにして得られたかに関してです。基本的には思考が行われています。ただし一生懸命考えているわけではありません。何かを解明しようというような思いもありません。頭が働いているだけです。頭が何を考えるかは頭に任せています。思うのですが、思考とは精神という器質に溝を掘る作業なのではないかと思っています。精神という器質にさまざまな溝が彫られています。それはある種のスケッチに似ているでしょう。本や雑誌、新聞あるいはネット上で何かを読みます。最近は難解な書物は読んでおらず、一般的な情報ばかりです。大体さっと流し読みをします。そうしていると時々気にかかる情報に出くわします。そういう時にその情報について少し思考します。調べることもします。自分なりにいくつかの側面から情報を周辺領域を含め検討します。それによって少しばかり記憶に定着します。ただし定着するといっても、1日ごとに考えたものを捧げることを通じて「積極的に」忘れるようにしています。多分無意識の領域に情報が蓄積されているか、あるいは捧げることによって、私に必要ない情報は誰か必要な人のところに届いているかしているでしょう。これはthinker, thinkingの部分です。
次にclearの部分に関してです。大切なのは常日頃からmindとheartをきれいにしておく必要があるということです。水が澄んでいれば1mの底を見ることができますが、濁っていたり波立っていれば底は見えません。mindとheartをきれいにするとはどういうことかというと、サーダナ(霊性修行:瞑想や御名、マントラを繰り返し唱えることなど)をするということです。mindやheartをきれいにしているとどういうことが起こるかというと、そこから思わぬ時に思わぬアイデアが純粋な姿でわいてくるということです。馬は騎乗者の手綱でコントロールされるように、私はそのような思い、アイデアによってコントロールされている部分があります。そのアイデアを記述するぴったりとした枠組みが、先の段落で述べたような日常的な思考の繰り返しの中ですでに準備されていたならば、それがそのままclear thinkingの産物です。アイデアが出てきた時点でそれ以上考える手間はほぼありません。アイデアは何らかの型にはまります。これは現代のヴェーダといっていいものなのかもしれません。
clear thinkerとなるための効果的な方法は奉仕なのかもしれません。奉仕をする際は相手のニーズや置かれている状況などをしっかりと検討します。これはthinkingに対応します。そして計画したことに沿って奉仕活動を行います。行動の何が奉仕で何が奉仕でないかを分ける最も重要なポイントは無私かどうかでしょう。自分がそれによって何らかの報いを得たいという行為の結果への執着がない、私が行っているというエゴがない、私が成し遂げたというプライドもない。そのような無私性です。そのような無私性によって奉仕が捧げられたとしたならば、その無私性とあらかじめニーズや状況を分析した際の思考とが結びついて、実践的知識、体験的知識が得られます。このように奉仕はclear thinkingを促進することでしょう。
冒頭に取り上げたように、多分世界というのはclear thinkerたちに属しているのだと思います。そして実際にclear thinkingというのはとても力をもっていることと思います。長ったらしい論述を必要とする知の領域もあるでしょうが、私が一般の人に勧めるのはもちろんclear thinkingの方です。他の人には他の人なりの方法論があるでしょうが、私は上に書いたようなclear thinkingの手法に従っています。