『プレーマダーラ 愛の流れ』(サティアサイババ)という本の32ページに次のような言葉があります。
「真の自己とは、自らを忘れている自己です。なぜならそれは、どのようなわけか、他者の中に自らを見ることによってのみ、自己を思い出すものだからです。…」
最初にこの文を読んだとき、まったく意味が分かりませんでした。特に前半の「真の自己とは、自らを忘れている自己です。」の箇所がです。人間はそれがわずかであっても自意識があって社会生活が保たれているのではないかと思っていたからです。ところが最初にこの文を読んでから20年ほど経って、少し理解が進んだような気がしましたので、今日はそのことについて書いてみます。
私は20年以上、親が亡くなった日を含め一日たりとも光明瞑想を欠かしていません。瞑想の歩みは遅々としたもので、最初の5年くらいは姿勢を保ってプロセスを何とかこなすだけで精一杯でした。決して瞑想といえるようなものではありませんでしたが、しかしプロセス自体はきちんとたどっていました。次第に心の雑念が減っていき、少なくとも安定した心の平安は得られるようになりましたが、それでもまだ瞑想といっていいかわからないような状態でした。瞑想とは瞑想しているという意識がなくなって初めて瞑想だからです。このような瞑想しているという意識がなくなって瞑想という状態に至るのは、コンディションの整った限られたたまの日だけです。しかしたまにしかそういう状態にならなくても、あまりに進歩が遅くても、前進の跡は見られたといっていいでしょう。そしてそのうち、光明瞑想の光をめぐらすプロセスの後に意識を鼻の先に置くようになりました。これはバガヴァッドギーターに書かれていることです。意識を鼻の先に置くことでまた少し進歩が見られました。瞑想の意識がなくなる瞑想の頻度が少しは上がったでしょう。光を瞑想するのですが、鼻の先に光を思うといってもいいかもしれませんが、むしろ鼻の先に意識を向けていたら意識の向いてない背後にある自らの存在が光で満たされていたといえる気はします。鼻の先に意識を向けることにより瞑想しているという意識のない瞑想に入れはしますが、それと同時に自らの存在が意識から抜けていたということは自らの自己を忘れていたということでもあります。瞑想とくに光明瞑想に長い間取り組んでいる人には私の言いたいことのニュアンスは少し理解していただけるでしょうか。
もう少し違った側面から述べてみます。
Twitterに次のような言葉がありました。Adi Slokaという方のアカウントです。
"Put your awareness to work, not your mind."(あなたの意識に働かせなさい、頭(思考)ではなく。)
思考が働いているということは頭が働いているということで、例えば光明瞑想中に意識を鼻の先に向けていても、微妙な思考が発生することはしばしばです。しかしそれでも意識を鼻の先に集中させ続けていると、頭の中で思考が働くことがなくなってきます。頭そして身体全体は意識で満たされており、それは単に意識で満たされているというよりは意識が働いているといえるのでしょう。英語のニュアンスは十分に理解していませんが、put your consciousness to workの方が適切かもしれません。あるいは心理学用語を用いればput your unconsciouse to workなのかもしれません。意識は光で表象されるからです。
私は次のようにツイートしたことがあります。
「投資家は投資によってお金に働いてもらうとよくいうけれども、自分を忘れて好きなことに夢中になるとき、人は時間に働いてもらっているのだと思います。」
また名越康文氏は次のようなことをいっています。
「知識と知識、経験と経験が結びつく瞬間が謎なのは、それが意識の側ではないからだ。つまり新しいアイデアを思いつくには、無意識に集中しなければならない。では無意識に集中するとは何なのか。それはおそらく遊び、無駄な楽しみの時間、もっといえば逃避することなのだ。」
人は自分を忘れているとき、つまり自分が自分の面倒を見ていないときには、時間あるいは無意識が自分の面倒を見ているわけです。自分を忘れている自己が自分の面倒を見ているわけです。つまりそれが真の自己なわけです。オーム カーラーヤ ナマハ(時間という神に帰命し奉る)といわれるように、時間は神です。また無意識は人間の思考の手の届かないところにあります。自己を忘れているとは、思考が働いておらず、顕在意識よりもずっと深い意識が働いている状態のことです。思考というのはかなり浅いレベルの意識です。大洋における波のようなものです。
他者(外界)を見るときの気づきはすべて自己を思い出すことであるならば、それを踏まえた外界の探求と自己探求は重なります。科学と霊性の接点です。また自然の中でハイキングなどをしていると、猛威をもたらしかねないあるいは美しい自然に意識が向きます。つまり自己を忘れることがあります。また真に相手のことを思ってなされる礼拝としての奉仕の行為は自己を忘れさせてくれるでしょう。なぜ神は外側を向きさまざまな面倒をもたらす五感を人間に与えたのかという一つの答えは、自らを忘れるためなのかもしれません。五感は人を嗜癖の迷路に迷い込ませ、人を牢獄に閉じ込めはしますが、適切に扱いさえすれば、それは健全なリクリエーションや正しい態度でなされた奉仕活動などですが、霊性の目的にかなうということなのでしょう。神は自らを知るためにこの世界を作り出したと聞いたことがありますし。