満足の欠如

 ある記事を読んでいて少し考えてしまいました。その方はギャンブル、お酒、タバコとあらゆることに関して依存症の症状を呈していました。その方は大きな問題で悩んでいました。「人生とは食べて飲んで寝て働いて稼ぐだけのものなのか?」多くの人はこういうことについてもしかしたら悩まないのかもしれませんが、こういうことで悩む人もいます。その人はもし人生がそういう類のものであったならば、なぜ生きなければならないのだろう(つまり人生の目的は何か?)と考えていたようです。そして依存症に陥っていました。

 人生の根源的な問いに直面して、人はさまざまに思索を行いますが、いくら考えても回答が出ない場合、結果として(依存症も含め)時に精神の危機に直面します。それは単にその人が弱いからではなく、現代社会や周囲の人がその人に回答を与えることができないが故であります。

 その記事の人は、友人に誘われてある奉仕団体の奉仕活動に定期的に参加するようになりました。奉仕活動はさまざまに定義されますが、その意味の一つは、ある困った人や苦しんでいる人を見たときに生じた自分の心の痛みを解消するためにその目の前にいる人をケアすることです。また結果を求めない他者に対する純粋な無私の愛の行為ともいえます。

 このような奉仕活動に継続的に参加することで、日常生活とはまた違った行為のレベルが存在することを理解し、彼の依存症は、10年近くという長い時間がかかりましたが、癒されました。そして人生の目的に関する疑問もその間に少しずつ解消していきました。

 日常生活のレベルをgood work(よき仕事)のレベルとすれば、奉仕のレベルはgod work(神の仕事)のレベルといえます。奉仕の精神を十分に理解している団体に参加しなければ、このような行為に関する理解はなかなか得られないかもしれません。

 ほとんどの人にとっては、食べて寝て働いてお金を稼いで時に気晴らしをするという生活で手一杯です。そういう生活でも満足は得られます。しかしそれとはまた違う満足のレベルもあるということを知っておいても損はないでしょう。

 私自身のことに関していえば、やはり日常生活を営むだけでも大変で一日が終わるころには疲れとそして満足があるのですが、単なる日常とは別に、霊的な歩みを振り返り、そういう方面での純粋な努力を続けたいという気持ちが離れません。

 たとえばこのブログにさまざまな気づきを書き綴ってはいますが、いまさらながら思うのは、何かが理解できてそれについて書くことは真の満足とは関係ないということです。

 霊性に限ったことではないのでしょうが、「大いなる不満」は人間が生きる原動力です。それがあるがゆえに、私は毎日生き続けています。