無私無欲の願い

 「いつ何時、誰が望みを示しても、それが真に無私無欲のものであるならば、神は必ずその願いを叶えるでしょう。」(Baba)
 「もしあなたのハートが純粋であれば、神は必ずあなたの願いを聞き入れます。たとえば、ペンが必要だというなら本気で神に祈りなさい。ペンは必ずやあなたのポケットの中に現れるでしょう。」(Baba)

 日本人はどちらかといえばあまり祈らない方の国民ではないかと思います。神仏に祈って何かを請い求めるよりも、自分でできる限りのことをしようという気概のある人が多いような気がします。良くいえば自立心がある、悪くいえばエゴやプライドが高いといえるかもしれません。

 私は今は祈りの人間です。自分と同じようなレベルの人間にいろいろお願いするよりも、神仏に祈るほうが賢いし適切だと思っています。人間同胞は互いに協力するために存在し、神仏は人々の面倒を見てくださるために存在していると受け止めています。

 100%純粋でない世俗的な願いでも神仏は聞き届けてくださるものです。場合によってはそうでないこともありますが、それは自分にふさわしくないものを願ったためなのかもしれません。

 上に掲げた言葉によると、真に無私無欲の願い、純粋なハートから発せられた祈りは100%叶えられるようです。ここでのポイントは無私無欲、純粋なハートというところでしょう。無私無欲とは、エゴと欲望がないということ。純粋とはハートに汚れがないということで、同じような意味と受け止めることができます。

 エゴや欲望のまったくない願いをすることは意外に難しいものです。自分の心に正直に問うてみれば誰もがわかるのではないかと思います。窮状に置かれて、ただ祈るしかないというような場合であっても、中心となる祈りに余分な思いが付着してしまうことがあります。

 私もこの人生50年、いろいろなことを祈り願ってきましたが、片手の指ほどもないでしょうが、おそらくは無私無欲の願いを心に抱いたことがあると思います。「思います」と書くのは、かなり以前に願いはしたものの、時間の経過とともに忘れてしまったからです。しかしながら、当時願ったことが無私無欲であったことにより、その願いは短い時間の間にか、あるいは長い時間をかけてか叶えられてきたように思うのです。もしかしたら、願いが大きすぎて、未だ完全には実現しきってない願いもあるかもしれません。

 無私無欲の願いは、それが叶えられれば心に大きな満足が得られるものです。今私はかなり心に満足のある状態ですから、おそらくかつて抱いた無私無欲の願いが叶えられたおかげだと思うのです。そう考えれば、無私無欲の願いを抱くこと自体が、大いなる祝福といえそうです。

 「無私無欲の願いは100%叶えられる」。これが公理であるとより大きな声で公言できるように、残りの人生でさらに一つでも無私無欲の願いを抱けるようになりたいものです。