愛に生きる

日常生活から少し離れて内省の時間にふと浮かんだ思いを記します。

霊性修行2

 

霊性修行については10回以上このブログで触れたことがあります。インドの言葉でサーダナともいいます。霊性に焦点をあたえた行のことで、瞑想や称名、礼拝、奉仕、祈り、霊的文献の学習などがそれにあたります。いわゆる修行の意味に近いと思います。その目的は心の浄化もっといえば心を取り除くことにあるとされます。サイババによりますと、霊性修行=サーダナの4分の3は探求(自己探求)だそうです。先週は思惟と題してエデュケア(内から引き出すこと)について触れました。思惟は(自己)探求に似ています。そうであるならば、その4分の3が探求であるとされる霊性修行(サーダナ)はかなりの部分思惟と関係するでしょう。当然エデュケアとも関係します。

 

たとえば祈りについて考えてみましょう。祈りは心(ハート)の奥から湧き上がってくる思いを言葉にしたものであるべきです。祈りを捧げるときには、自らの祈りの意味をよく理解した上で口にしなければなりません。ある祈りの言葉があって心の思いがそれに関係していなければ、果たしてその祈りは神仏に届くでしょうか? 意味をよく理解した上で祈りを捧げるとき、さらにはその祈りに沿った形で生活が営まれるときに祈りは聞き届けられるでしょう。祈りを捧げるときに思いがそれにふさわしいならば、それは思惟に似た効果があるのではないでしょうか? 自らの意識を確かに深めます。それは自己探求に関わり、心の奥のより深いものに到達させてくれます。

 

瞑想はどうでしょうか? 瞑想には非常に多くの技法がありますので、今は私が20年近く行っている光明瞑想について述べます。光明瞑想は眉間から光を取り込み、それをハートにおろしてハートに想像した蓮の花の花びらを一つ一つ開いていきます。その後光を手足や目鼻口頭などに移し、それらが光のもとで邪なことにかかわらず正しく用いられることを思います。そして頭頂部から光を外に出し、親や兄弟、親族、友人知人、近所や職場の人、あるいは敵対している人たちをも光で包みます。また社会や自然なども光で包んでいきます。余談ですが、私は最近プーチン氏を愛の光で包むようにしています。最後に私は光の中にあり、光は私の中にある、私は光であると思って静寂に入ります。これらの作業を意識的に継続して日々行うことは思惟に似ていないでしょうか? 光明瞑想は確実に意識の探求をもたらします。

 

御名やマントラを唱えることについても触れておきましょう。日本仏教に限らず、他国の宗派の中にも御名やマントラは意味がわからなくても唱えておけばいいという人がいるかも知れません。しかし意味がわからずに唱えるならばテープレコーダーとまったく変わりません。御名を録音したテープレコーダーを回していれば、テープレコーダーは霊的に向上するのでしょうか? 機械的に唱えても私は意味があるとは思いません。ただ人間はなかなか集中力を保てないので、それらを唱えているときに心がよそへ飛んでしまうことがあることは認めます。私が人に教わったのは、たくさん御名などを唱えるのは、一回でも心を込めて唱えることができるようにするためだということです。何はともあれ、御名やマントラを唱えるとき、その御名やマントラの意味を理解しておかなければなりません。たとえば阿弥陀様の御名を唱えるとき、阿弥陀様の属性や御姿を思い浮かべるのが好ましく、それによって心の汚れが取り除かれ、ひいては心の奥に内在するものに気づくようになります。御名やマントラを唱えることも思惟に似ています。

 

つまり霊性修行(サーダナ)というものは、正しく行われれば自然に意識の探求、自己探求につながるものです。そういう世界中で行われている修行には探求ひいては教育効果(エデュケア)があるものですが、このことは現在一般に理解されていません。これはとても残念なことです。霊性修行(サーダナ)は心の涵養につながります。人間に深みをあたえてくれます。学校教育に宗教を取り入れるのは現状難しい面があるかもしれませんが、家庭においては各人が宗教を生活に取り入れることは比較的容易でしょう。宗教が人の生活にどのような影響をもたらすのか知っている人が少ないのが現状です。