感情について

 私はかつて人から理知的な人だといわれたことがあります。感情的か理知的かというわかりやすい分類をするならば、理知的といっていいかもしれません。自分でも思うのですが、おそらくは感情がそれほど豊かな人間ではありません。感情面では控えめなところがあります。そのせいか、このブログではこれまで感情について触れることがあまりなかったようです。

 ヤッドバーヴァム タッドバヴァディ
 (感情のとおりに世界は現れる)

という言葉があります。人は喜びに満ちているときは世界が輝いて見えますし、悲しみに襲われているときは世界が灰色がかって見えます。世界は淡々と変化し続けているのですが、その世界をまさに自分のものとするには、つまり自分と世界がつながるには感情が必要になってきます。自分の感情を自分の思う通りに操れるのか、あるいはそれは自然に現れてくるものなのかどうかよくわかりませんが、感情的になると、単調な世界の中に自分だけの舞台が出現するのは、人がよく経験することです。

 そして感情によって自分の舞台=世界が現れたときに、そこで自分がどう生きていくかについて人は思いを巡らせます。わかりやすい例をあげれば、子どもが誕生し喜びに満ちているときに、親は子どもを含めた家庭のこれからを想像します。それが世間一般でいわれるストーリーというものでしょう。人は感情とストーリを大切にしながら生きています。人には感情とストーリーが不可欠だといっていいかもしれません。

 一方で、感情は一時的なものでそれに振り回されるべきではないともされます。事実誤認に基づいて感情が喚起され、そこに思惑が形成されたものがいわゆる偏見と呼ばれるものでしょうし、そういう意味で感情とはある程度の距離が必要です。

 しかしすべての感情を否定していては、生活が立ち行かなくなる、場合によっては感情の湧いてこない鬱々とした精神的苦痛に満ちた生活をおくることになります。どうすればいいでしょうか?

 おそらくは愛を育むことが重要に思います。私の語感の問題かもしれませんが、人に愛情をかけるというときはその人にある感情を向けるという意味なのですが、私がここでいう愛とは愛情とは異なり、自らの存在に立脚するというような意味です。そして太陽が善人にも悪人にも光を注ぐように、万人に愛の光を向けることです。
 サマートワム ヨーガムッチャテー(平等心がヨーガである)といわれるように、感情を押し殺さずそれが湧いてくるに任せても、深く愛を育んでいれば、平等心つまりすべてのものや人を等しく見る態度から離れることはないのではないでしょうか?

 一つ付け加えておきたいことがあります。うれしい、悲しい、つらい、おかしい…、感情はさまざまでしょう。しかし人は時に実在的苦痛に見舞われることがあって、それが肉体的なものであって精神的なものであっても、人はつらいと感じます。単なる感情としてのつらいもあるでしょうが、実在的苦痛に見舞われた時口から出てくるつらいという言葉は、緊急に人の助けを求めるものです。そういうときには、必要な医療を勧めたり、あるいはその人に寄り添って苦しみを分かち合うことができればと思っています。

 喜びは分かち合えば倍になり、苦しみは分かち合えば半分になるといいますもの。