愛に生きる

日常生活から少し離れて内省の時間にふと浮かんだ思いを記します。

信仰2


信仰については時に触れてきましたが、信仰を主なテーマにした記事は一度しか書いたことがないようで、最近信仰についてまとめて考える機会があったので、今日は信仰について書きたいと思います。

 

神や仏のことに関してつまり宗教の領域に触れるようになると、最初はさまざまな苦しみの解決を求めたり、富や良好な人間関係、知識などを求めてしまいます。自分とそう変わらないレベルの他人にそういうものを求めるのではなく、神仏に求めるだけで素晴らしいことですし、世俗的なことを求めたとしても非難されることは決してありません。私にもそういうところはありましたし、今でもそういう思いが心をよぎることはありますし。しかし富や人間関係、知識などを求める段階から次第に恩寵自体を求めるようになっていきました。私にとっての恩寵を簡単にいうと、神仏が私へ眼差しや気持ちを向けてくださることと、それによってもたらされる満足や平安なのですが、日々の労苦がちょっとした恩寵によってあがなわれるような気持ちになります。恩寵を感じたときは、行為の連なりである鎖のようなものから一瞬でも解放されるような気がします。その恩寵を求めて私は信仰心を育もうと努めたのかもしれません。しかし今思うに、長い時間をかけて育んだ信仰心そのものが大いなる恩寵であったことにも気づきます。信仰心が備わっていると、それ自体が豊かさをもたらします。それは人生の大きな喜びです。

 

最近信じることに関してTwitterでおもしろい言葉を見かけました。

 

―「疑う」はコスト 「信じる」は投資
組織運営や人間関係、コミュニケーションなどは上記の考えで共通認識が持てると、長期的な関係を築きやすくなります。(石黒卓弥)

 

確かにこの言葉にあるとおりです。法律も基本的には人と人との信頼を前提として条文が作られると聞きます。法律による解決は当事者双方が信頼しあってこそ機能するのであって、疑い合っている人同士の間の紛争解決は法律があっても非常に困難であるようです。ただし抜け穴をできるだけ封じるために、条文の表現は細心の注意を払って検討されますけれども。法律に限らず、人間関係は互いの信頼があってこそうまくいくのは、誰もが知っているでしょう。神仏との関係もそれと大きく異なることはありません。神仏(超越者)との間の信頼関係=信仰があってこそ、人生は十全に機能します。

 

信仰とはせわしい心のことを言い表しているのではありません。神仏のことを頭でさまざまに思考してたどり着ける境地ではなく、むしろハートの領域に関することです。つまりハートが開いている状態のことです。神仏はすべてのすべてですから、神仏に対してハート(心)が開いているならば、他の人や状況に対してもハートは開かれていて、つまりは世界に対する肯定的態度をもたらします。故に人が真に信仰を得たのならば、その人はそれ以前に比べて変容しています。

 

信仰は英語ではfaithです。一方日本語で信念といえばbeliefという単語になるでしょう。faithはハートに関するもので、beliefは頭の中にある思い込みの一種です。生きていく上でbelief信念が必要となることもあるのでしょうが、まずは自分のハート心を開くことが先決です。私の見るところでは、幼い子どもはハートを開いている人ばかりではないかという感じで、なので、ハートを開くこと=信仰を持つことは多くの人にとって実は簡単なことではないかと思うのです。強いていえば、人生で傷つくことを多く経験すれば心を閉ざしてしまうということはありますが、自分を傷つけようとする人と距離を取ったりすることで、ハート心を開ける環境をもたらすことはできます。

 

ハート心の内には、目には見えないですが愛とか光とか知恵などが詰まっていて、ハートを開くことでそれらが解放されます。人生は喜びにあふれます。心が明るくなります。人間としてより賢明になります。私はいいことばかりだと思うのですが、先にも触れたように暴力的な人や環境のもとにいるとそれが阻害され、悲しみを多く経験することになります。信仰は少しずつ育むものですが、誰もが信頼に足る人と人生を過ごしてハートを少しずつ開いていけばいいですし、さらには信仰によって得られた喜びを世界へと広めていければ、世界はたちまち幸福と平安で満たされるでしょう。

 

信仰に生きることは、単なる頭脳的な賢さよりも高いレベルで生きることです。多くの人にその世界へと足を踏み入れてほしいものです。