愛に生きる

日常生活から少し離れて内省の時間にふと浮かんだ思いを記します。

知的生産あるいは知性について

 知性についてはたまに部分的に触れてきたのですが、知性を中心テーマにして書いたことはこれまで数えるほどしかありません。世の中には頭を使いたがる人が多いのですが、おそらくそういう人は知性に関心があるのかもしれません。たとえば自分のことを知的だと思っていたり、知的だと思われたいとか。あるいは、極度の不安にかられて逸脱した思考に振り回されている場合もあるでしょう。

 私にはほどほどには知性が与えられているかもしれません。私は自分に与えられた知性を適切に活用したいと思うことはありましたけれど、自分より優れた人を見かけることは多々あり、そのたびに自分の知性の限界を理解していました。自分より優れている人を見ても、私は嫉妬することがなかったと思います。私の制限ある知性は自分の人生を切り盛りするに十分でしたから。

 他人に嫉妬したり、他人と競争することはなかったのですが、若いころは自分がどこまで物事を理解できるか試みたことはあります。主に古典とされる書籍の読解を試みることで。あるいは私は何か疑問があると、とことん考えるほうです。奥歯に物が挟まったら落ち着かないのと同じで、何か疑問があるとそれが頭から離れず、その状態が嫌だったので、その疑問を解決するために何とか物事を理解しようと試みることが多かったです。

 知的生産に関してですが、何が知的生産に値するかは、人によって物の見方はさまざまなので、いろいろな意見があるでしょう。人生を歩んでいく上で、その歩みを阻害することがあったときに、それを乗り越えるに十分であれば、その人の知的生産は申し分ないはずです。問題となるのは、自分が納得するだけの理解が得られない場合です。私などは、工学に関することはほぼ関心がないですし、法律の知識なども困ったときには詳しい人に相談すればいいかと思っています。人は何でもかんでも知ることはできないですし、偉大な学者とされている人でもその人の知っていることは実際にはごくごくわずかです。自分がこだわる領域の知識がわずかばかりあれば大概満足できます。若いころは数学と科学論に関心があった私ですが、今は霊性と生活の実用的な知識に大いに関心があります。

 わからないことがあっても、ある程度時間をおけばほどほどに満足の行く回答に自分自身で達することができるようになるためには、かつてこのブログで触れたことがありますが、アートマの知識(真の自己に関する知識)を探求するのが正統かつ王道です。アートマの知識は、それを知ればすべてを知ることのできる知識といわれています。私は自分自身が完全な知識を得ていると世界中に断言するほどではないのですが、現代日本人の中では、自己に関する探求においては稀といわれるくらい探求してきたのではないかと思います。世界中の人や歴史上の人と比べればそう大したことはないのですけれども。自分自身のことを知ることが、何で他のあらゆることを知ることに関係するのかという疑問は起こるでしょう。私もかつてそう思ったことはありますが、私の場合は心の平安を確保するために自己探求を始め、それが結果としてほどほどに物事の本質を理解する能力につながりました。

 ヴェーダに次のようなマントラがあります。「マートル デーヴォー バヴァ(母親を神としなさい)」このマントラは私の心をとらえたのですが、普通に考えれば母親は完璧な人間ではありませんし私の母は問題を抱えてもいたのですが、しかし私は愚直にこのヴェーダマントラの指示を実行に移しました。どのように行為し母親に接することが「母親を神とする」ことなのか繰り返し繰り返し十何年にもわたって考えそれに従って実践してきました。このマントラの意味することを真に実行できたかどうかに関して偉そうなことはいえないような状況でしたが、しかしこのような探求が私の心を深く耕したことは疑いのないことです。豊かな心の畑があれば、そこにタネをまいたとき芽が出、大きく育つものです。私の心は生産的になりました。これは知的生産の向上につながっています。

 知性は思考=知能ではありません。条件が整った場合に、ハートで自然に育つ何かだと思います。若くして成熟することは少し難しく、経験も必要とするでしょう。しかし真摯に求めれば、おそらくは恩寵によってふさわしいものが与えられます。そう恩寵です。知的でいたければ信仰も欠かせないものといえるのかもしれません。