多様性2

 以前にも書きましたが、この世は多様性によって成り立っています。人が7~80億人いようとどの二人も似ていません。みな異なった個性をもっています。とてもすばらしいことだと思います。人だけでなく、生物種もそうです。さまざまな生物もさまざまな人の個性も、すべてが自らの存在を通じて創造主を賛美しているかのようです。

 最近思ったのですが、多様性とは「どの人のためにも世界や社会はある」ということですよね。あるいは目の前の人がどのような人であっても、「あなたのためにも世界や社会はある」と肯定する態度のことですよね。例えば最近よく聞くようになった言葉にLGBTがありますが、どのような性的嗜好であっても肯定しようとする機運が世界的に広まっているということです。あるいは障害者は健常者に比べて社会生活の点でさまざまなハンディキャップはあるものの、しかし世界や社会はそういう人たちのためにも存在していて、世界や社会を活用することが彼らに本来的に許されていると私は感じています。LGBTや障害者などの少数派だけでなく、どんな人であってもまったく同じことです。

 私たちは世界や社会を楽しむことができるのですが、それはあたかもミツバチが花の蜜を楽しむようなもの。度を越して利己的になると世界や社会の搾取になります。たとえば人間は多少なりとも化石燃料を楽しむことはできても、現代のように掘りつくして浪費しまくっていたら、その内化石燃料は枯渇してしまうでしょうし、自然環境のバランスが崩れます。基本的な態度としては自分に与えられた能力を使いながら生き、必要な部分において世界や社会から益を引き出せばいいのだと思います。

 一方誰もが世界や社会から恩恵を受けることができるように、自然環境や社会環境をある程度整えておくという視線も必要。それぞれの人が自らの役割を果たすということはそれに資することだし、多くの人がそうとは知らずに世界や社会を支えています。教師は人を育てることで社会を豊かにしているし、ビジネスマンは有益な物を広く分かち合うことで社会を豊かにしています。

 家族を見てみましょう。夫婦に新しい子どもが生まれた時、その子どもの個性はさまざまです。私の知人に「子どもの人格に責任がもてない」といっていた人がいるのですが、教育の結果ではない、生まれたときから備わっている個性のようなものが人にはあるようです。もし子どものその個性が家庭の風に合わないとしたならば、それを矯正しようとする親もいるでしょうが、そうではなく、子どもがどのような個性をもっていても、家庭はそれに対応するという態度でいれば、子どもにとっては幸せなことですし、家族全体の懐も深くなると思うのです。それが「だれのためにも社会はある」ということです。

 家族だけでなく会社でも同じことがいえます。人の個性はいろいろ、能力はいろいろ、生活環境もいろいろ。さまざまな人が働きやすい会社のシステムを整えることで、その会社の多様性は確保されます。きっと多様性の確保された会社は繁栄することでしょう。

 私の師は"Unity in diversity"(多様性の内の一体性)という言葉をしばしば使っていました。この言葉を「要するに一体性(一つであること)が大切なので、みなが同じように考え行動するのがいい」と解釈する人がいましたが、私はそれにまったく同意しませんでした。みなが同じように考え行動するのならば、"Unity without diversity"でしょう。

 Unity=ekathwaとは一つであること、つまり一体性というより一性と訳したほうが私には意味がとりやすいのですが、ならば"Unity in diversity"(多様性の内の一体性)はどういう意味かというと、「人々が真に多様であるときに初めて世界は一つになる」と私は理解しています。多様であってこそ、世界は初めて機能しだすのです。みなが機械ばかり作って農産物を作らなくなったらどうなるでしょうか? みなが物を売ってばかりで物を作る人がいなくなったらどうなるでしょうか? みなが人に指示ばかりしていて、誰も他の人の指示を聞かなくなったらどうなるでしょうか? 両性が存在していなくて子孫を得ることができるでしょうか? 多様性こそが社会が機能することの本質です。社会だけでなく、自然もさまざまな生物の多様性があってこそ、バランスの取れた生態系が作られます。

 なぜ多様性は必要なのか? それは社会や自然環境が機能するためである。そのような見方のもと、多様性がより広まっていけばいいなと最近私は願っています。