愛に生きる

日常生活から少し離れて内省の時間にふと浮かんだ思いを記します。

全託5

 約2年ぶりに全託について書きたくなりました。しかしながら私には全託というものが今だに部分的にしかわかっておらず、今日書くこともわずかばかりのさわりに過ぎません。こんなことを考えている人がいると、読む人にとって少しばかりの参考というか考えるきっかけになればいいなと思います。

 タマソーマー ジョーティルガマヤー
 (暗闇から光明へと)

 これはシャンティマントラ(平安についてのマントラ)の一部です。人は暗闇の状態から光明のもとへと移ったときに平安を感じるということです。確かにそうですね。特に小さな子どもは、昼間太陽が照らしているときに比べて、真っ暗闇の中にひとりでいることを怖がるものです。大人でもそうでしょう。私も状況においてはそうです。たとえば見通しのよい明るい場所にいるときは不安を感じないのですが、薄暗い草むらの中にいるとヘビを恐れてしまいます(私はヘビが大の苦手です)。

 「タマソーマー ジョーティルガマヤー」の詩節を霊的に理解すれば、それは「タマス(暗闇、エゴ)からジョーティ(光、全託)へ」という意味、つまり人はエゴを手放して全託した時に心の平安を得るということのようです。ここでは光は全託と受け止められています。

 個人的なことですが、心の中にやましいことがあったり、ちょっとした嘘をいったり、人道にもとるようなことを行ったときというのは、自分のいかがわしさや邪悪さなどのせいで心が落ち着くことはありません。自分で自分のいかがわしさや邪悪さを意識していなくても、思いや言葉や行為に問題があるときというのは心が落ち着かないものです。つまり心が平安でないわけです。

 それに対して、私がこのブログで何度も触れたことがある光明瞑想のように、いつも自分の思いや言葉や行為あるいは五感が光で満たされているときには、つまり今現在の自らの思いが100%理解されていて、話したり書く言葉が自らコントロールされていて適切であり、行為においてその動機が純粋で人や世界を傷つけるものでなく、状況にふさわしいことが行われたとき、心が不安になる余地というものはないはずなのです。いいえ正確にいえば、24時間365日思いと言葉と行為が絶えずそのように光で包まれている場合にのみ心は平安を楽しむことでしょう。

 私たちが知覚するこの現象世界において、神の性質を最も感じさせるものは光だという説があります。私はそれに同意できます。つまり思いと言葉と行為が四六時中光で満たされているならば、それは四六時中神の庇護の下にあると理解することもできるわけでして、そういう状態を全託(神にすべてを捧げた状態)と受け取ってもいいのではないかと最近思ったのです。人には無意識というなかなか自分で気づきにくいものもありますが、長期間にわたって思いと言葉と行為を神の前(=光)にさらして生きてきたならば、おそらくは無意識が人間に対する影響力は少しずつ減少していくのではないかと思います。そもそもある精神科医の方によると、無意識というものは本来ポジティブなものであるらしいですし。

 全託ということに関心がないとしても、日々自らの思いと言葉と行為に注意(意識の光)を向け続けていたならば、少なくとも心の平安が得られるのは間違いないでしょう。聞いたことがあるのですが、一日の終わりの寝る前に、その日にあったことを振り返って、その日に行ったこととその動機を日々吟味し続けていたなら、それだけで人はかなりのレベルに向上していくとのことです。ただしこの作業は思うよりも難しいようです。私はこれまでのところ、この作業をしていませんので何ともいえませんが、一つのお勧めかもしれません。もちろん光明瞑想もお勧めです。