グル(霊性の師)は必要か?

 

今日はグル(霊性の師)についてです。いつもいっていますが、霊性という言葉もグルという言葉も日本ではあまり人々に使われているわけではありません。より砕けた表現を使えば人生の師といえますし、一般には聖職者(僧侶や神父・牧師)の方々が歴史的に担ってきた役割のことです。しかしあえてグルという表現を用いさせていただきます。

 

グル(霊性の師)は必要か? 万人に必要かどうかはわかりません。ただし多くの人にとってグル(霊性の師)をもつことは好ましいと思います。一方で特に真理の探求の道、霊性の道を歩み始めた真摯な求道者には必ず必要なのではないかと思っている次第です。

 

私にとってグルがどういう存在なのかについてまず書いておきます。話をわかりやすくするために、人生を山歩きに例えましょう。山歩きをしたことのない人にはわかりにくい例えかもしれませんが、どうか許してください。山の中には道の分岐などに、どちらに行けばどこにたどり着くかを示す道標(みちしるべ)があります。登山者はそれを見て歩く方向を決めるわけです。一般にグルの役割はこの道標に似て、人生の方向や目的地を示すこととされます。グルが自分の代わりに自分の人生を歩んでくれるわけではなく、山道を歩くときに登り下りを自分で歩かなければならないのと同じで、人生も苦労して自分の足で歩くわけです。グルは自分が歩んだことがあるのでその山域に関して詳しく、求道者が歩くに際して、大雑把ですが的確な指針を示すことができます。私の場合は、グルに求める役割はこれとは少し異なります。私はグルに無理をいって、道中ずっと同伴してもらっています。もちろん自分の足を使って歩み続けています。グルが単なる道標である場合に比べて、グルが同伴者であれば、グルの足並みに合わせなくてはならないので大変なこともありますが、心強く安心感があります。一般に登山においてはソロ(一人歩き)では人はあまり成長せず、自分よりレベルの高い人と歩くことで格段に登山のレベルが上がるといわれています。

 

先ほど聖職者の方々が人々の師の役割を歴史的に果たしてきたということを書きましたが、現代日本ではそれはあまり機能してなさそうな気がします。私の知らないところに優れた方がいる可能性はありますが、そういう方々にたどり着くのは困難です。グルを探してもたどり着けないそういう人たちへのアドバイスとしては、以前にも書いたのではないかと思いますが、神ご自身にグルになっていただくのがいいでしょう。それはそうと日本に限ったことではないでしょうが、人の師になりたがる人は多いですね。一種の流行です。一応念の為に書いておきますが、私は霊性のことについてそれなりの期間書いてきましたが、人に何かを教えたいという気持ち(ここでは人の師になりたい気持ち)はありません。人の師というのは責任が重大で私には無理なのです。ただ霊性の道を歩む人の励みに時になりえる「良き仲間」でいれたらいいなとは思っています。

 

一つの立場として、自分の内なる促しに従って歩める人にグル(霊性の師)は必要ないのではないかという考え方があります。私自身に関していえば、私はある程度内なる促しに従って生きることはできはしますが、グル(霊性の師)が必要ないと思ったり感じたことはありません。私自身が中途半端な人間だからですし、私の性質でもあります。私は人生の目的地の一歩手前まで来てもグルを手放さないと思います。グルと歩むこと自体が私のこの人生のテーマでもあるからです。

 

人生に目的があってこそのグルだとされます。自分の人生に目的のない人に対して、グルはこちらが目的地ですよと示すことはできないでしょうから。人には明かさないけれども、私には心に留め定めている人生の目的があります。その目的地を目指して歩んでいけば、結果的に不二一元の境地に近づくのではないかと思っているので、不二一元論を通じて自分の現状の検証を思いついた時にしています。私に残された人生の時間はあと30年もあるでしょうか? その残された時間をできる限りグル(霊性の師)と共に歩んで行くつもりでいます。

 

最後に少し書いておきますが、優れたグル(霊性の師)は言葉を用いずとも、眼差し一つで人を導けるものです。