以前(2年と1ヶ月ほど前)に変容とは、一つに心=考え方が変わること、一つに習慣が変わること、一つに外界においていた価値を内界におくこととの類のことではないかと書き、そのときは特に習慣について書きました。その考えに大きな変化はありません。
そのときにも書きましたが、私は(そしておそらく誰もが)生まれてからこのかた自分であり続けているのですが、その自分の存在というものはまったく変わることがありません。また、私は幼い頃から内向的な人間でしたので、物思いに耽る事は多く、外界においていた価値を内界に向けるようになった変化もないといえます。なので、天動説が地動説に変わるような変容というものは今まで経験していません。
ならば何が変わったか? 取り入れる情報や食事などをコントロールした結果、内面が浄化された=余分な想念がかなり減ったのは確かです。そのおかげで平安を楽しむようになり、平安であるがゆえに物事の理解も用意になり、時の流れに適応しやすくなった面はあります。心が浄化されてきたと実感できるほど心を浄化したならば、それは大きな変容といえると思います。
私はあまり人付き合いが上手ではないのですが、それでも不思議に時々に人に恵まれてきました。時々に自分にあった人と関わりがあったと思います。そして年をとるごとに、付き合う人が変わってきたのです。自分が変わってきているから、付き合う人が変わってくるのでしょう。付き合う人が変われば、自分もその影響を受けて変わるという面もありますが、自分が変われば、もう自分に必要ない人と関わることがなくなったり、自分にあった人を探したりします。そういう人間関係の面で私は変わってきました。
もう一つこれも変容なのではないかと思うことがあります。物事の捉え方、考え方は年を重ねるごとに少しずつ変化してきました。単に考え方が変わったというのではなく、(遅々とした歩みですが)人間としての成熟に伴い、人間・人生がより統合されてきた、それに伴いものをより広く深く見ることができるようになったという点を挙げれます。integrity(インテグリティ:高潔、誠実、完全な状態、全体などの意味)という言葉がありますね。
最後にもう一つ。信仰心をもてるようになったのは地味かもしれませんが、大きなことです。神仏の存在は幼い頃から信じていたのですが、かつては神仏を恐れていたところがあります。それが神仏に親しみを感じ愛することができるようになりました。それに伴い、基本的な性格がネガティブからポジティブに変わりました。これなくして今の自分はないかもしれません。
人間が成長を目指すならば、人は変わっていくことが求められるでしょう。ならば、ただ頑張るだけでなく、人が変わるとはどういうことなのかを理解する必要があってしかるべきです。年初にあたり、人が変わるということについて考える参考になればうれしいですが、もっと様々な視点から変容を考察することもできるのではないかと思います。