人生の方向性

 

「人生は一本の線ではない。一日という点が連続して、一本の線になる。」(樹木医・塚本こなみ氏の座右の銘

 

私は今年52歳になります。仮に100歳まで生きるとしても人生を折り返しました。もしかしたらあと10年足らずで死んでしまうかもしれません。平均寿命まで生きるならば30年は生きるでしょう。今の時点で残りの人生が10年か30年か50年かまったくわかりません。残りの人生が10年であるとして人生を設計することも、30年としてあるいは50年として設計することもできません。多くの日本人は可能な限り長生きすることを当然のことと考えているのかもしれませんが、私は私が死ぬ日は今の時点でほぼ定まっていると思っていて、それがいつかなのかはわからないのですが、何とかその日まで前向きに生きていかなくてはなりません。一つ思うのは財産のことです。財産は適切に用いてこその財産だと思っているので、溜め込んで死後に多くを残そうとは思っていません。一方思うがままに使うと、長生きした場合に困ることになります。私に与えられた財産は可能な限り活用したいと思っています。

 

いつ死ぬかわからない状況下において、私は一応当面の一ヶ月あるいは一年の計画を立てているのですが、しかし実際には一日単位で生きているのが実情です。朝起きてから一日なすことをして、夜寝る時にその日一日の活動を神仏に捧げています。一応記憶は多少なりとも残るのですが、一度捧げてこだわりを手放してしまえば、過去のかなりの部分を忘れてしまいます。人生の連続性が睡眠によって区切られていて、私のここ最近の人生は、塚本氏の座右の銘にあるように、一本の線ではなくたくさんの点の集合になっています。心に残るものが少ない、つまり抱えている荷物が少ないので、しがらみは少しばかりあるもののかなり平安で幸福です。

 

一日一日が点のように細切れであるならば、その全体(人生)は酔っ払いの千鳥足のようになって進歩前進しない可能性があります。しかしながら、私はゆっくりではあるものの一定の方向へ向かって歩んでいるという実感はあります。それは一つには私が置かれている状況が変わらないので、取り組む課題が一定であるというのもありますが、大きな要因は日々行っている瞑想にあるのは間違いないと思われます。

 

no-pointedness(焦点がない状態)、many-pointedness(多方面に焦点を向ける状態)、one-pointedness(一点に焦点を向ける状態)の3つがあります。日本の禅を生かじりの人は、瞑想とはno-pointedness(焦点がない状態)のことと勘違いしているかもしれませんが、実際には正しい瞑想はone-pointedness(一点に焦点を向ける状態)にあるとされます。私は日々光明瞑想を行っています。これは光に意識を向ける瞑想です。光という一つのものに焦点があたっています。one-pointednessです。このことが私の人生に方向性を与えています。私の人生は一日単位ですが、それらに通底するものとして光があります。私は意識していようといまいと日々「光」の方向に向かって歩んでいるわけです。

 

普通人の行動を律しているのは、他者の目だと宣言する人もいそうですが、多くは理念、理想です。人はその人なりの理念を実現しようとしていて、理想を目指して歩んでいます。若い頃の私もそうでした。それは一つの正しい生き方です。しかし今の私は理想はともかくとして、理念を掲げて生きてもその重みが辛く感じるほどです。私は今軽やかなものの中でも最も軽やかなものである光(これは理想でもあります)を目指して生きるようになりました。光明瞑想を長年にわたって続けていると、24時間とはいかないまでもかなりの部分光に導かれるようになります。無意識的にでも、そして具体的にそれがどういう状況へと導くのかは知らないにしても。

 

私は光を瞑想していますが、他のものを瞑想の対象にしていれば人はそれに導かれはします。自分の好む神仏を瞑想していればその神仏に導かれるでしょう。あるマントラ真言)を瞑想していればそのマントラ真言)に導かれるでしょう。それと同じように、卑俗なものを瞑想していれば(常にその事を考え続けていれば)それに導かれます。

 

私は歴史的に形成された理念に生きるよりも瞑想に生きる人間になりました。それは一つの選択です。こういう選択肢があることは、読んでくださっている方に何らかの参考にはなると思います。