愛に生きる

日常生活から少し離れて内省の時間にふと浮かんだ思いを記します。

神に面倒を見ていただくための条件

 

Any faithful individual need not worry about who will take care of them if they truly devote all their time to thoughts of God and practice of His divine message. (Baba)
(もし自らの時間のすべてを、神を思うことと彼の神聖なメッセージを行動に移すことに真に費やしているのならば、すべての信仰ある人は誰が自分の面倒を見てくださるのかについて心配する必要はありません。)

When all burdens are placed on the Lord and His teachings are followed ceaselessly and sincerely, He provides for all needs. (Baba)
(すべての重荷が主に委ねられ、彼の御教えに絶え間なくそして誠実に従っている時、主はすべての必要を満たします。)

Those who worship Me and meditate on Me without any other thought, to these ever steadfast devotees I secure safety and supply all their needs(I carry their burden).(bhagavad gita 9.22)
(他のことを思うことなく、私を礼拝し私を瞑想する者、それらの常に着実な帰依者に対して私は安全を確保し、彼らのすべての必要を満たす。[彼らの重荷を引き受ける])

Fill thy heart with Me, be thou devoted to Me, do thou worship Me and bow down to Me. Thus thou shalt attain unto Me. Truly I promise thee, for thou art dear to Me.(bhagavad gita 18.65)
(あなたのハートを私で満たし、私への思いに浸り、私を礼拝し、私に従いなさい。これによってあなたは私に到達するでしょう。私はあなたに約束します。なぜならばあなたは私の愛しい者であるから。)

以上の4つの詩節に関して、日本語訳に至らないところはあるでしょうが、どうか許してください。

 

信仰や帰依に関して、それが自分をどういう状況に至らしめるのかかつての私は悩んだことがあります。世には盲信とか狂信というものもあり、それだけでなく信仰や帰依に見返りのようなものがあるのかという思いもありました。今も生活の保証を求める気持ちはあるけれども、神への愛はそれ自体が喜びであるとも思うようになってきて、若かりし頃と比べて受け取り方に変化はあります。

 

大雑把に要約すれば、絶えず神を思ったり、神の御教えに従っている、神を礼拝している帰依者のすべての面倒を神が見てくださるということです。すべてとは文字通りすべてのことです。食べる物のこと、住むところのこと、家族の面倒、その他生活の細々としたこと、人間としての成長のこと、人生の目的に関することなどすべてです。私にはどこか鈍(なまく)らなところがあるのでしょう、神様が自分の面倒を見てくださるという宣言を目にすれば、ついつい従いたくなるのです。自分の生活の面倒をすべて自分で見るのと、神を四六時中思い神の御教えに従うのとどちらが簡単かという問題はあります。私の経験からいえば、神を思い、神の御教えを誠実に生活に取り入れようとするほうが簡単です。苦労がないわけではありません。ただ少なくとも人生がシンプルになり、また平安でいられるのは間違いありません。

 

神を思うことに関しては、抽象的な神の概念を心に抱き続けるだけでなく、諸宗教が提示する親しみやすい神の御姿、あるいは自分の好みの神の御姿を心に思えばいいと思っています。何が神の御教えなのかわからない人もいるかも知れません。自分が選んだ宗教、あるいは好みの聖典を手に取れば、教えの示し方はさまざまですが、丹念に読めば理解できると思います。自らの生活が、真に理解している御教えによって息吹を与えられるならば、従う御教えはたくさんでなく数個(あるいは一つ)でも構わないのでしょう。礼拝ということに関しても仏壇・神殿・聖壇で礼拝するだけでなく、人間や生き物の内に神性や仏性を見ることができるようになった時に、人間や生き物への奉仕として礼拝を表現することもできます。

 

話は少しずれるかもしれませんが、信仰と忍耐によって日々の勤めを果たし続ければ(つまりworkによって)、帰依が育まれるといいます。帰依はworshipやdevotionという言葉で表されるもののことです。帰依があれば愛と犠牲で生活が満たされてきますが、この愛と犠牲(目に見えるものとしての奉仕)によって英知(wisdom)が育まれます。work - worship - wisdomは人間の進化の階梯です。

 

thou art dear to Me(あなたは私の愛しい者)。母は子が愛しいでしょう。母は愛しいものである子の面倒を見ます。神にえこひいきがあるのかと思う人がいるかも知れませんが、神にも愛しい人がいるようで、それは子が母を頼るように神を頼る者のことです。神を頼らない人に関しては、その意志を尊重して神はその人の思う通りにさせておくのでしょう。バガヴァッド・ギーター12章には、クリシュナが愛しいと思う帰依者の特性が多く述べられています。それらの特性を身につけることで神にとって愛しい者となり、ひいては人生の面倒も見てもらえると私は受け取っています。

 

そもそも神に面倒を見ていただこうという気が起こる人がどれくらいいるのか知りません。私はそれを心から望んでしまったわけです。真剣ですから、微妙な表現の違いにも敏感です。そのため今日は4つの詩節を取り上げたのですが、諸宗教の諸聖典をさらに見渡せば、もっと多くの「保証」が得られることでしょう。ある面では神との間の取引ではあります。しかしかつても述べたことがあるように、重大なことに関して人間との取引に精を出すより、神と取引するほうがずっとマシです。そもそも信仰心がなければ「取引」を行おうという気が起こらないでしょうが。