統制的なものについて

 

先週は物語について書きましたが、それに少し関連することを今週は書きたいと思います。物語のもつ一つの機能についてです。

 

私は若い頃に少しばかり西洋哲学に関するものを読んでいました。もう30年くらいあるいは25年くらい前かもしれませんが、浅田彰氏だったと思いますが次のようなことをいっていました。「理念は仮象であって実体はないけれども、それは人に対して統制的に働く。そしてそれなしには人は生きるのが困難なのではないか。」ここに取り上げた文章は彼の厳密な言葉ではありません。私の記憶に残っている言葉です。ですので、彼は別のニュアンスで語っていたかもしれません。

 

理念とは自由とか平等とか公平とかそういう類の、わかりやすくいえば「こうあるべきだ」という考えで、理想とする概念というのが一番いいのかもしれません。その元はプラトンのイデーにさかのぼるようです。この理念というのが仮象である、つまり仮に掲げられたものであって実質・実体がないということが一点です。次にそれは人に対して統制的に働くということです。理念という実体のないものにすがって人は生きている、理念というものを念頭に置いて人は生きていかざるを得ない、理念によって人の人生は規制され方向づけられるということです。人はある種の夢を見ながら生きているわけです。私は理念に生きるのがしんどくなったとこれまでにこのブログで書いたことがあります。

 

aitasaka.hatenablog.com

 

さて本題です。人が自らの人生を物語によって語るのは、理念と同じく、それなしには生きることが困難な統制的なものとして物語はある、ということではないかと。私は自分の人生を物語として語ることはなかったといっていいくらいなのですが、むしろ理念に生きる傾向がありました。だから理念が人に対して統制的に働くということはよく理解していて、物語に関してはそれほど理解していないにも関わらず、そうではないかと思うわけです。物語が自らの人生に対して統制的に働くのかどうか、自らの人生を物語のように語る人に尋ねてみたいところがあります。もし物語が自らの人生に対して統制的に働くのならば、それを私はあえて否定することはしませんし、物語を必要とする人の気持ちを尊重します。

 

数学も統制的なものでしょう。一般の人は私たちが生きるこの世界が現実で数学の世界は現実ではないと思っているかもしれませんが、数学者たちはピタゴラス学派に見るように、数学の世界が現実でこの世界は現実ではないと思っています。私はこの見解を理解できます。さて数学を用いてさまざまな科学の理論が作られていますが、数学はこの世界に対して統制的に働いています。一般的には数学は仮象であって実体はなく、現象の支えがあって何らかの意味を持つものです。ならば、数学を用いたさまざまな理論にどれだけの確かさがあるのかということです。なぜか不思議と確かなように見えるだけです。理念や物語と同じように。

 

このような統制的なものがなければ生きていけないという人はたくさんいるでしょう。ここからは私の一つの推測なのですが、そのような統制的なものがなければ生きていけない人は、もしかしたら人生は一寸先は闇で、そのように未来がまったく予測できないことを恐れているのではないかということです。悪いことをさんざんしてきた人の恐れには妥当性があるでしょうが、よいことをしてきた人はおそらく未来がわからないことをあまり恐れないと思います。なぜなら、よいことをしてきて悪い結果が襲ってくることはあまり考えられないからです。なので、統制的なものを頼りに生きることを一概に否定はしませんが、そういうものなしに生きることも可能だということは知っておいていいように思います。だから「よい人であれ、よいものを見よ、よいことを為せ」といわれます。シンプルですが、これが人生を歩み続ける上での王道だと人はいいます。