mind(心、思考、視野)を広げる

 

次のような言葉が気を引きました。

Broad mind is life, narrow mind is death. Mind can be broadened only through divine contemplation. (1999.4.15) (Sathya Sai Baba)
(広い心は命・人生で、狭い心は死です。心は神性・神を黙想することを通じてのみ広げることができます。)

http://www.sssbpt.info/ssspeaks/volume32/sss32p1-10.pdf

 

私には怒りなどの悪い性質がありますし、それほど心が広い人間とは思ってはいませんが、それでも特別心が狭いわけでもないと思っており、ほどほどに平均的な人間ではないかというのが自分の正直な気持ちです。ただ若い頃に比べて少しばかりはmind(心、思考、視野)は広がっているようなところはあり、経験のおかげかも知れませんが、それとは別に上に取り上げた言葉のように、神性・神(divine)の黙想を少しばかりは積み重ねてきたためでもあると思います。心が広いのと狭いのを比べるならば、おそらく心が広いほうがより平安で満足の人生を送っているでしょうし、あまりにも心が狭い人は暗い洞窟に迷い込んでいるのに似てかなり窮屈で世界がおどろおどろしそうです。

 

今日はdivine contemplationについて少し触れましょう。divineは神とか神の性質・属性のような意味でしょう。contemplationは黙想です。集中-黙想-瞑想の三段階がありますが、私なりの理解では、黙想とは黙って(心の声を静かにして)黙想の対象を思い浮かべ、その思いに浸ることです。なのでdivine contenplationとは神や神の性質を思い浮かべて、その思いに浸ることです。

 

divine contenplationの効用には次のようなものがあると思います。
1.一般的に神、神性とは無限で果てしないものです。つまりそこには人間の認識によっていつもつかみきれないところが残ってしまい、それを何とか克服しようと努力することで、人間の心や思考の幅が自然に広がるということです。適切な文献に当たれば、神や神性に関してさまざまな記述が見られることでしょう。どの性質でもいいと思いますが、ある程度の時間その対象への思いに浸ることが大切です。
2.通常神話なり神仏に関する物語は私たちのこの世的な話とは異なりスケールが大きなものがほとんどでしょう。それらを滑稽だと拒絶せず、まずはその物語の中に含まれている諸価値に目を向けるのがいいと思います。その話が何を伝えようとしているのかに焦点を当てるのです。このこと自体が当然思考の訓練になりますし、その物語に含まれている価値を実践するための手がかりも得られます。スケールの大きな話を受け入れることができれば、視野が広がります。
3.神、神性を黙想していると神との関係が少なくとも心理的に親密になり、神仏の側からの恩寵、恩恵が得られることもあるでしょう。それは人間の努力では容易に到達できないレベルに人を導いてくれます。

 

私自身はmindを広げようという目的でdivine contenplationを始めたわけではありません。当初はすがる気持ちがありましたし、また瞑想に取り組んでいたとき、瞑想状態になかなか到達できずその手前の黙想状態に長くいたということもあります。黙想の対象が神、神性ですと、いつになってもこれでいいという満足に到達することはなく、そこに困難を感じはする一方、逆にいつも新鮮な気持ちで黙想に携わることができます。

 

瞑想に取り組んで、その途上で黙想を楽しむのもよければ、私はしばしば神仏の御名を書くのですが、その際にその御名の属性を思い浮かべています。書かなくても口に唱えてもいいでしょう。真言マントラに関しても同じです。礼拝も心の目に神仏の姿を思い浮かべれば、それは黙想です。心が狭いより心が広い方が、小さなことにこだわらないでしょうし、幸せな生活を送れることと思います。なのでdivine contenplation(神、神性の黙想)は多くの人におすすめしたいと思います。