愛に生きる

日常生活から少し離れて内省の時間にふと浮かんだ思いを記します。

幸せの第二の方程式

だいぶ前になりますが、かつて「JOY(喜び)を得るには」というタイトルで記事を書いたことがあります。その時と内容は重なる部分がありますが、今日もJOYについて書いてみます。

aitasaka.hatenablog.com

 

JOYとは、Jesus first, Others second, Yourself last.の頭文字をとったものです。サイババの言葉です。おそらくクリスチャンに向けての話の中で語られた話です。JOY(喜び)=幸せになるには、Jesus(神)、他の人=社会の順番に優先し、最後に自分のことを考えなさいという教えです。些細なことですが、神を優先し自分を後にすることは、一部の人には理解しやすいでしょう。私の家には仏壇がありますが、そこに食事前にお供えをしてそのあとに自分が食事を摂ります。お饅頭でも何でもいいのですが何かを仏壇にお供えして、翌日か数日してそれをお下がりとしていただきます。仏様が先で自分は後です。仏壇のない家庭や他宗教のことはよく知りません。

 

仏壇にお供えをすることではなく、日常生活においてJesus(神)が第一、Others(他人、社会)が第二、最後に自分とはどういうことなのでしょうか?あくまでも私個人のありように関することですが、述べておきます。私は毎日朝目覚めると長い間の習慣になっているのですがついコーヒーを飲んでしまいます。目覚めて数十分何をするとはなしにゆっくり時間を過ごします。そして光明瞑想を最近は30分ほどします。その後仏壇に手を合わせ、ユーチューブでサイババの映像を見ます。そして日常生活、食事に入ります。起きてからまずは宗教的、霊的な活動に携わり、意識をそれに関することで満たします。日々の日常においては、たまに自分の欲求に任せてしたいことをする日もありますが、大抵は義務にまつわること、どうしてもしておかなくてはならないこと、小さいながら奉仕に関することなどを優先します。合間合間にインターネットのニュースやツイッターをのぞいています。また昼や晩やさまざまな機会に祈りの時間をとっています。自分のエゴを満たすことは食事やリクリエーションを含め控えめにしたり、後回しにしています。

 

神仏を優先するのは、かつてのっぴきならない危機に見舞われて以降の習慣です。ギーターにあるように苦難は人を神仏へと向かわせます。他者のことを考えるのも、近所の人や親族、社会が安定していてこそ自分もその大きな恩恵を受けることができるのを長年の間に学んできたからです。食事に関しては空腹感を満たせればいいですし、服もほどほどに適当です。無性に山を歩きたくなったり、少しばかり旅行をしたくなることはありますが、今のところリクリエーションもそれなりの節度の範囲内におさめています。実際にそういう生活を送る中でJOY(喜び、幸せ)を味わっています。以前幸せであるためにはUnion with Godが大切であるとの記事を書いたことがあり、このUnion with Godを幸せでいるための第一の方程式であるとするならば、JOYは幸せでいるための第二の方程式であるといえるでしょう。

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先週はアートマ(自分自身)でいることについて書きましたが、方法論としてはこのJOYがそれに当たるのかもしれません。Jesus(神)が第一、Others(他人)が第二、最後にYourself(自分自身)のエゴを満たすことです。神に向き合う時に自分自身の姿を知ります。神という鏡に自分が映し出されます。自分の周囲の人々そして広くは社会や国家などへわずかながらでも貢献できるようにすること、これで自分が安定します。肉体意識(エゴ)は肉体をまとっている間は時々にでも出てくるもので、それは残りの時間や資源(食物、お金など)で欲求を満たします。あくまでも私の見解ですが、ただ唯一のものが存在するだけで、それは神であり視点のあり様によっては自分=アートマなわけです。神や社会のことに関わるということは、アートマであることを維持するための作業です。エゴが自分であると思う人とアートマが自分であると思う人とではそのあたりの理解が異なります。

 

少し前はアメリカファーストだの、都民ファーストだのそういう言葉をよく耳にしました。政治家が有権者の利益を考えることは間違ってはいませんが、人々のエゴを強化したり、特定の人への配慮に傾きすぎるのもよくありません。公共の意識を失ってしまえばさまざまな軋轢が生じます。政治に関係する人々だけでなく、今の世の中では自分ファースト、社会セカンド、神は最後という人が多いでしょう。神は最後というより、神仏のことをまったく意識しない人はかなりいそうです。仕事をするときにも、それが何らかの形で社会へ益をもたらすという意識のある人がいる一方で、単にお金を稼ぐためであって賃金分の仕事をしない人もいるはずです。

 

私は肉体は内在するものを保護する家のようなものに感じており、同様に社会や国家は私を守ってくれる衣服や家のように感じています。神仏はこの世界・宇宙全体を優しく保護している存在に思います。少なくともどれも同じように大切であるとの意識が世の中に広まればいいと思っています。第一にエゴの欲求を満たし始めると、それが単に一時的な喜びしかもたらさないものですから、結局は自らのエゴを満たし続けるしかありません。世界の安泰、社会の安泰、身近な人々の安泰があってもたらされる喜びはそれよりもずっと永続するものです。