愛に生きる

日常生活から少し離れて内省の時間にふと浮かんだ思いを記します。

感謝し感謝される関係

 感謝について先週書きました。そこに書いたとおり、感謝の気持ちをゆっくりと育んでいきたいと思っています。感謝というのは物や人に対する感謝から始まって、神仏への感謝にまで到達しないといけないと書きましたが、今日は反対に「神仏から感謝されるような人間になるには?」ということについて書きます。

 「人生のすべてを神に委ねるもの―それが帰依者です。そのような帰依者を神は永遠に感謝します。」(Baba)

 人生のすべてを神に委ねるとは、エゴのかけらがまったくなくすべてを委ねるということです。ときに神に委ねときに自分の利益のために生きるのは、すべてを委ねるとはいえないでしょう。このブログでも取り上げることがありましたが、全託ということです。私は真宗門徒なので、全託は生涯のテーマになります。

 驚くのは、すべてを神に委ねるものを神は「永遠に」感謝するという点です。永遠にというのは、委ねた時点だけでなく、未来永劫ということです。何人かの偉人・聖者は歴史にその名を残していますが、例えばイエスは2000年、お釈迦様は2500年ほどしか人類にその名を知られていません。永遠とはそれよりも遥かに長い時間です。神にすべてを委ねた者の名が歴史に名を留めるとは必ずしも限りません。しかし神の御心に永遠にその名が記されるということです。これ以上の栄誉は考えられないことです。

 委ねるというのは簡単なようで非常に難しいことです。単にいいことをし続けるというのとは異なります。もちろん、神様が人間に望むことのほとんどはいわゆるいいことなのだろうとは思うのですが。

 真偽はまったくわからないのですが、このようなことを聞いたことがあります。ナチスに殺されたユダヤ人の多くはかつてイエスが処刑されたときに処刑を支持した人たちだったと。そのカルマ(報い)が約2000年後にもたらされたと。ヒットラーは狂気の人ですが、しかしもしかしたら彼は多くの人が返さなくてはならないカルマを返す場をそうとは知らずに提供した道具だったのかもしれません。くり返しいいますが、ナチスに関するこのことの真偽はわかりませんが、こういう類のことはありうると私は思っています。

 現代インドの聖者ラマナ・マハリシのアシュラムがある夜襲われたことがあります。ラマナ・マハリシは強盗に足蹴にされたのですが、聖者に対してこのような行為は許し難いと怒る側近に対してラマナ・マハリシはいいました。「私がかつて足蹴にしたその人が私に仕返しに来たのです」と。ラマナを襲った強盗はいい人ではなかったでしょうが、ラマナが返しておかないといけないカルマを返す道具となりました。

 帰依者がすべてを委ねるとは、本当にすべてを委ねるということで、わずかばかりも「私」、「私のもの」という思いがあってはなりません。神に糸を引かれる操り人形あるいは文楽の人形のように生きるということです。それがどういうことなのか、なかなかうかがい知ることはできません。人間の善悪の観念に合致する部分は多いでしょうが、それを超えている部分もあるはずですから。そしてエゴがなければ、いいことをしても悪いことをしても「私がした」という想念は湧いてこないものです。

 すべてを委ねるということは、精神的に病気の人の症状ではありません。精神的・霊的に全き健康の人だけがその資格を与えられるのだと思います。

 神仏に対する感謝の念を深めていきたいと願う一方、神仏に感謝される存在になりたいという願いもあります。おそらくはそういうチャンスは何千、何万回と生まれ変わってくる中で一度でもあるでしょうか? そしてそのチャンスを確実にものにすることはできるでしょうか? 人生の半ばに差し掛かった私に、霊性はなお一層深い深淵を私にのぞかせてくれるのです。