4つのグニャーナ

 

インドにはグニャーナ、ヴィグニャーナ、スグニャーナ、プラグニャーナという言葉があります。私は知りませんけれども、もっと多くグニャーナという言葉を含んだ複合語がある可能性はあります。私が知っているのはこの4つです。グニャーナは英知という意味で、他の3つもそれに関係するものです。すべて英知に関係していて、この4つをすべてグニャーナ(英知)といっても大きな問題はないような気がします。しかし今日はこの4つに関して個別に私の個人的な理解を述べたいと思います。

 

この4つの中でヴェーダを唱えていて最もよく出てくるのはやはりグニャーナです。一般的に英知、知恵という意味です。単に知能が高いのとは異なり、物事の本質が理解できていたり、人生の知恵を備えていたり、そういう類のことを表現する言葉です。私はこのブログでしばしば書いていますが、行為の道、帰依の道、英知の道というとき、英知の道にあたります。サイババはシルディ・サイババサティヤ・サイババ、プレマ・サイババの三代にわたって化身するとされていて、シルディ・サイババは行為の道を主に説き、サティヤ・サイババは帰依の道を主に説き、プレマ・サイババは主に英知の道を説くとされます。シルディ・サイババサティヤ・サイババはすでに肉体を離れましたが、おそらくですが、未だ正体を明かしていないプレマ・サイババはいま幼少期でこの地上を歩いているのではないかと思っています。シルディ・サイババは行為の本質として信仰と忍耐を説き、この2つがあるところに帰依があるといいます。サティヤ・サイババは帰依の本質として愛と犠牲を説き、この2つがあるところに英知があるとされます。

 

ヴィグニャーナとは何でしょうか? ヴィ+グニャーナです。ヴィは接頭詞です。「離れて」という意味があるようです。また一般にグニャーナは理論知であり、ヴィグニャーナは経験知であるといわれています。このことに即していうならば、一般的な知識(グニャーナ)が与えられて、一旦その理論的な理解から離れ現実においてそれをどのように応用すればいいかを模索する。そして現実世界における実践を通じて、理論知であるグニャーナの理論的枠組を外れることなく、しかし高度な理解として知識が経験的に再編成される。その経験知がヴィグニャーナなのだと思います。グニャーナは理論的であり、かつ初めは一般的な大雑把な理解なのでしょうが、ヴィグニャーナはこの世界の事象の細部へと理解が浸透しています。グニャーナは木の根や幹だとすれば、ヴィグニャーナは枝や葉のように多少具体的な印象を私は持っています。これがインドにおいて正当な解釈であるかどうかはわかりませんけれども。

 

スグニャーナは何でしょうか? ス+グニャーナです。スはやはり接頭詞で「善い」という意味のようです。スグニャーナは比較的簡単です。善い知識、善いことに関する知識です。人は人生において悪い知識ではなく、良い知識を身につけなければなりません。悪い知識を得て人生を無駄にする余裕はありません。可能な限り善いことに関することを知り、それを生活に取り入れて、人間としての人生を贖うのが好ましいと思っています。

 

プラグニャーナについては少しだけこのブログで書いたことがあります。プラ+グニャーナです。プラについては詳しく知らないのですが、広がるという意味があったと思います。グニャーナの広がりです。日本語では般若(はんにゃ)という言葉がプラグニャーナに相当すると思います。風船の中の空気と風船の外の空気があるように、人の外にある意識と内にある意識があります。風船が破裂すれば風船の中の空気と外の空気は一つになりますが、それと同じように人の外にある意識と内にある意識が一つになったものが遍在意識つまりプラグニャーナです。人はエゴによって外界と内界に分割されます。日本人がいう本音と建前はこの内と外の分割を前提とした言葉です。しかしエゴが取り払われたならば人の内界はなくなり、あるいは内界と外界の区別はなくなり、意識は一つになります。エゴがない、つまり清らかな意識、純粋な意識、汚されていない意識、これがプラグニャーナであり、こういう状態の時に人の理解力は最高度に高まるはずです。

 

人はそれぞれですので、行為の道を好む人、帰依の道を好む人、英知の道を好む人がいます。英知をことさら求めなくとも、帰依の道を歩んでいれば英知は自然に伴うので、またそもそも帰依の道が最も簡単なので私は今後も帰依の道を歩み続けるでしょうが、時代の風潮としては英知が今後より強調されるようになるのではないかと思います。そのような時代において、グニャーナ、ヴィグニャーナ、スグニャーナ、プラグニャーナの4つの言葉の基本的な意味を押さえておくと、いろいろな面で多少なりとも役立つのではないでしょうか。