愛に生きる

日常生活から少し離れて内省の時間にふと浮かんだ思いを記します。

文学について

 

私も少しばかりは文学作品を読んだことがあります。若い頃に、ある種はやりというか嗜みの一つとして、試しに読んでみようとほどほどの数の作品を読みました。私は物語の筋を追う読み方をしていて、話が楽しいかそうでないかくらいしかわかりませんでした。いわゆる文芸(文章の芸)を楽しむほどの素養はなく、長じて読むことをあまりしなくなりました。まあまあの数を読んだと思うのですが、今記憶に残っているのは、星野道夫氏の本や沢木耕太郎氏の深夜特急などのような紀行文がほとんどです。純文学は結局のところわからないままです。実は私は非常に驚いたことがあって、それはどういうふうに生きればいいか、あるいは人生の哲学を求めて文学作品を読む人がいるということです。文学に哲学を求めているのです。私にはまったくない発想でした。文学にそういうものを求める人たちが実際に何かを得ていたのかは知りません。今となってみれば、私個人は、文学作品を読んだ時間はかなり無駄な時間だったのではないかという気がしないでもありません。得たというものがないからです。

 

先日「新しい経済」という題で記事を書きましたが、そこでも少し触れましたように、最先端の経済学は少しばかり文学的なようです。経済は一つの物語といえる部分があって、多少なりとも現実を説明しつつも理論の前提である経済人というものが完全な概念ではないので仕方ないところはあると思います。また少し前に新聞を読んでいて日中国交正常化の記事が目に入りました。朝日新聞だったと思いますが、そこには台湾の扱いについて厳密な法律論で合意が得られない部分を文学的表現で曖昧にぼかしたとありました。法律の領域では関係者が完全に合意できていないことに関してはこのように文学的表現が取り入れられることは多々あるのかもしれません。経済学にしろ、法律に関することにしろ、これはこれで一つの知恵であり、このような文学の効用は私は受け入れたいと思います。

 

ただ基本的に今の私は文学を好みません。たとえばコロナ禍ですが、あくまでも私の個人的な見解では科学的にそして政治的に取るべき道はほぼ定まっていると思うのですが、さまざまな意見がメディアを賑わせています。このコロナ禍は医者や理系の大学教授の権威を失墜させましたが、その多くは科学的というよりも私にいわせれば文学的です。うんざりしていました。

 

また少し以前の話になりますが、昭和の時代には今は亡き昭和天皇の戦争責任が話題になることがありました。私も昭和の時代を20年生きてきたのでそのあたりのことは少しだけなら知っています。さまざまな意見があったようです。そして昭和天皇はかつて誰からかは忘れましたが、ご自身の戦争責任に関してご意見を求められたことがあるようです。それに対して昭和天皇は「私は文学的なことはよくわかりません」と答えられたというような話を読んだことがあります。日本人自身の手で太平洋戦争や日中戦争が裁かれたことはないにしろ、一応戦勝国による東京裁判は終わっています。当時の国際法がどのようなものであり、また後の時代の国際法から過去を見たとき当時はどのようにみえるのかなど、私にはわからないことばかりです。しかし日本では多くの議論がなされ、昭和天皇ご自身もその一部は耳にされていただろうとはいえ、「文学的なこと」と表現せざるをえないその気持ちの一端はわかる気がします。

 

つまり現代においては何らかの隙間があれば、そこが文学で満たされるケースが多々あるということです。判断や思考の一時保留です。先にも書きましたように文学の効用はあるものの、あまりに物事を複雑にするのを私は好みません。

 

私は現代において他の芸術に携わるものに比べてなぜ文学者が大きな顔をするのか不思議でならないところがあるのですが、現代の風潮としては彼・彼女らがもてはやされるところがあるのでしょう。私は人生とはシンプルなものだと思っていますので、文学の肩をもつ人がいるのは知っていますが、あまり文学に関わりたくないのが正直な気持ちです。