物語について

 

 いわゆる手にとって読む本に書かれた物語ではなく、むしろ人々の語りとしての物語に関してです。大きな物語として代表的なものに歴史があります。本来歴史は歴史資料をもとに科学的に過去の状況を探っていくものだと思いますが、しかしながら、小説家の書いた歴史物語のように、ついおもしろおかしく歴史が記述されることがあります。それが事実がどうかには関わらず、人々に受け入れやすい形で歴史が語られます。歴史に限らず、小さなものから大きなものまで物語は身近です。例えば最近の例ではコロナに関することや眞子様のご結婚に関することも、油断するとつい世間で語られる物語をそのまま受け入れてしまいます。何でも批判すればいいというわけではないのですが、人々が好む物語には、大切な部分が排除されているケースもあり、私はそのような意味で物語というものがあまり好きではありません。


「心はいつも、いま自分が物語のどのページにいるか知りたがります――。
まず本を閉じましょう。しおりを捨ててしまいましょう。もう物語は終わりです。ダンスが始まったのです!」(ステファン・ボディアン)

 

これはツイッターで見つけた言葉です。物語といえば、自分の人生を一つの物語として語るケースも多くあります。私は若い頃に映画を少し見ましたが、テレビドラマはほぼ見たことがないですし、あとは少しばかりの小説といわゆるファンタジーを読んだくらいですが、ほとんどの人が私よりも多くの物語に接しているのではないかと思います。さまざまな物語の類型を知っている人は、自分の人生も物語として捉えることがあるのかもしれません。私は比較的大変な人生だったので、少し大げさですが何とか生きていくことに一生懸命で、自分の人生にモチーフがあるとは感じていたものの、自分の人生を物語として受け取ったことは今までありません。そもそも、物語というのは頭を使うので、それだけでも私は物語に嫌悪感があるくらいです。しかしいわゆる識者が世の中の状況を物語として語るのをしばしば見聞きしていたので、そういうものなのかとは思っていました。

 

私は物語の時代は終わり、新しい時代はダンスの時代ではないかと思っています。しかしながら、今日は少しばかり物語の味方をしてみましょう。

 

私は物語は意識しないのですが、強いていえばコンテクスト(文脈)は理解しながら世の中や人に関わってきました。文脈は物語全体ではなく、微分的にというか瞬間的に目の前に明らかになった物語の断片といえるのかもしれません。その文脈に対しても、それに全面的に寄り添う、つまり文脈に沿って生きるということはあまりしません。文脈はあくまでもダンスパートナーの腕のようなもので、文脈の周辺で戯れるというような態度だと思います。あるいは文脈を経糸(たていと)、自分の生きざまを横糸として一枚の布地を織るような態度なのかもしれません。私にとって文脈(物語の断片)はそういうものです。

 

もう一つ物語の味方をしましょう。霊性の道には大きく分けて行為の道、帰依の道、英知の道があり、行為の道を歩む者にとってすべては神への奉仕であり、帰依の道を歩む者にとってすべては神の物語であり、英知の道を歩む者にとってすべては神の本質だという言葉があります(サイババ)。この三つで帰依の道が最も簡単で実りが多く、勧められる道だとされますが、つまり神の帰依者にとっては、日々の生活の中で起こることは神の演出する物語(お芝居)なわけです。楽しい日もあれば、辛い困難に出くわす日もあります。楽しい日をやり過ごすことは誰にでもできるでしょうが、困難な状況において普通人は様々にもがきます。しかし帰依者はそれを単にお芝居の一場面と受け取ります。神が自分(私)を登場人物としてお芝居を作り、それを見て楽しんでいらっしゃる。それ以上でもそれ以下でもありません。人生の各場面は単なるお芝居に過ぎないというのは真理である、といっていいのではないかと私は思うのですが、そういう意味では物語を肯定しています。しかしこの物語は往々にして次の瞬間どうなるかわからないものです。

 

歴史(history)は彼=神の物語(his story)だそうです(サイババ)。神様はある意味では暇だったので、この世を作ってお芝居を楽しんでいるという説もあるようです。そうだとしても、私はその物語の筋書きは人間にはわからずに伏せられていると思っていて、せいぜい瞬間的に文脈を理解することしかできないのだろうと受け止めています。