愛に生きる

日常生活から少し離れて内省の時間にふと浮かんだ思いを記します。

神のペースで歩む


「幸せは神と一つになることです。(Happiness is union with God.)ババ」という言葉にまつわることを少し触れてみたいと思います。この文を読んで、一見神との融合つまり人生の目的を達成することと受け取ってしまいかねませんが、人によって解釈はさまざまでしょう。私は基本的に個人個人の解釈の多様性を許容する方の人間で、これが唯一正しい物の見方であるというような主張は自分はしませんし、他の人が主張していても適当に聞き流すことが多いでしょう。その人が長年置かれた状況での体験に基づいた見解ならば、少なくともその人には役立つと思いますし、似た境遇の人にも何かが伝わるでしょうから、各人の解釈を大概尊重しています。「幸せは神と一つになることです。」に関して、私は二通りの解釈をしています。一つは内在する神性と心、身体が調和的であることです。もう一つは自分の周辺を含め遍在の神を意識して日々生活することです。前者に関してはたびたび身体-心-アートマの文脈で語ってきたので、今日は後者に関して書いてみます。

 

神を信じる人が神を思いながら生活するのに三通りの人がいるでしょう。一つは神のあとを歩む人、一つは神のペースで歩む人、一つは神に先んじて歩む人です。ただそもそも神が歩んでいるのだろうかと疑問を持つ人がいるかも知れません。理解してもらえるかわかりませんが、あくまでも私の思うところでは、神は信者の日々の歩みを一歩一歩導いてくださっていて、信者に寄り添ってくださっているわけです。少なくとも信者は神の存在を身近に感じているのが好ましいように思います。あるいは神が歩んでいる周辺に信者は存在しているともいえます。神のあとを歩む人は、神の後ろに離れて人生の歩みを進めています。一定の距離を保てればいいでしょうが、ときに見失ってしまうリスクがあります。神の御教えに従いはしますが、脇道に入ることがあります。神に先んじて歩む人もいます。神は自分にこれを求めている、神の御教えのこれこれに従うべきだと、神の指示を先読みして生きます。実際にそういう人はいます。そしてもう一つは神のペースで歩む人です。いつも神の横にいて、神と歩調を合わせている人です。御教えに従いつつ、それ以上に神と離れないことを大切にしています。これらの三通りの人の中で神の存在をいつも感じているのは、神のペースで歩む人だけです。神といつも雑談(語りかけ)をしているのも神のペースで歩む人です。

 

神の存在をいつも感じているというのが一つのポイントです。もう一つのポイントは、一日一歩毎日歩むということです。神のあとを歩む人は、一日一歩歩く日もありますが、サボる日もあります。神に先んじて歩む人は、一日に二歩も三歩もあるいはそれ以上も歩むことがあります。こういう人は人生の目的地に早く到着したいという願望が強いのでしょうが、そのうち疲れたり、神の存在を感じれなくなることがあります。一日一歩のペースが神と共に歩むにちょうどいいペースだと私は経験から思います。一歩とは何かという問題は今日は触れないでおきます。自分でそう感じれたらそれが一番いいのです。

 

話は変わりますが、相撲に一日一番という言葉があります。特に優勝を争っている関取が口にするのをよく聞きます。優勝が手の届くところに来ると、そっちに気が向いて目の前の一番に集中できなくなったり、緊張して身体が動かなくなったりするようで、優勝のことや翌日の取り組み、他の力士の勝敗のことは考えずに今日の自分の取り組みに意識を集中することが大切だということです。一日一番を心がけていたら、結果はあとから付いてくるといいます。これは一日一歩に近いニュアンスがあります。相撲と同じで一日一歩を心がけていたら、気づいた時に何らかの結果を手にしていることはありそうです。

 

私はこれまでの人生、思っていたことが思っていたとおりにならないことが多かったので、あまり遠い未来を念頭に置くことはなくなってしまい、結果として一日一歩歩むことができれば満足するようになりました。他の人から見たら自分の未来に関して無責任なのではないかと思われるかもしれません。ただ「幸せは神と一つになることです。」という言葉に照らしたとき、一つにはなっていないかもしれませんが、大概共に歩んでいる(一つの単位unionになっている)ので、それなりの幸せは手にしているつもりです。孔子は50歳は知命(天命を知る)の年だとおっしゃいましたが、具体的な天命は知らないまでも、私も50を過ぎ、それなりに確かな人生の方向性は定まったといえそうです。