適応は帰依

 帰依といえば神様、仏様への愛のことです。帰依は愛の道であり、人間を超越する存在への私心のない愛を育むことが人生に不可欠であると認識する多くの人がこの道をたどっています。愛の道はもっとも安全で、最も効果的で、最もわかりやすく、最も崇高であるといわれます。神様や仏様に重きを置くこと、神様や仏様へと流れ続ける愛、それが帰依です。

 それとは別にもう一つ私の心を捉える帰依の定義があります。それは「適応は帰依である」という言葉です。世界は神御自身の姿であり、世界で起こっていることはすべて神の御意志であるとみなすものは、神=世界から目をそらせることはありません。世界は絶えず動き続けるものですが、帰依者はそれに必死に適応します。懸命に神のご意志=世界に平伏するのです。

 先日新聞に「変わらないために変わり続ける」(河原成美)という言葉が載っていました。

 私自身もいつも変わらぬ自分自身でいるために状況に一生懸命適応するよう努力しています。甥が「大人になったら自分はどうなるのだろう」と、ぼっそと語ることがありました。私は「今と何も変わらない。ただいろいろなことができるようになるだけ」といいました。甥は大きくなったら自分が自分でなくなるような不安を感じているのだろうと思うのです。私がずっと自分であり続けるよう努力してきたように、状況に合わせて、一生懸命勉強し、一生懸命働き、共にいる人々と手を取り合うように生きていれば、人間は変わることはありません。甥にもそうあってほしいと思って、人間は大人になっても何も変わらないと伝えたのでした。

  「体験はたとえ幻想であってもその人に深い影響を与える。ただしその解釈は変容しうる。解釈を固着させ変容させないものこそが、妄想である。」(名越康文

 これはツイッターで見かけた言葉です。
 記憶というものは「うそ」をつくもので、時間が経つに連れて自分の都合のいいように変容していく傾向があるのですが、しかしながら記憶の解釈が変容することは、人間が成長、前進していることの証でもあり、精神が健全に働いていることではないかとも思うのです。大切なのは単なる事実ではなく、事実で構成される人生のほうなのですから。

 人間が変わることはとても大切なことです。変容は霊的努力の目標でもあります。

 世の中に適応していく中で、人間が変わっていく中で、まったく変わらない何ものかがあることに気づいてきます。何が大切なのかがわかってきます。

 「適応は帰依」。お寺や神社、教会に行かなくても、必死に生きている人を見ると、彼・彼女が求道者に見えてきます。