principle, disciple, discipline
今日は言葉遊びのようなところがあります。最も念頭にあるのは原理principleです。サンスクリット語ではtattvaという言葉に該当するのではないかと思います。書くことに責任をもつにはかなりの下調べをしなければなりませんが、言葉遊びと思って大目に見ていただければと思います。tatはそれ、存在という意味です。twamはあなた(you)という意味です。tattva(原理、本質)はブラフマンと個人の関係に関するものではないかと思ったことがあります。英語のprincipleがどういうものを指示しているのか、長年この語に接しはしてきましたが、よくはわかりません。その日本語訳の原理という言葉も何を意味しているのかよくわかりません。科学的原理なら意味はわかります。数学という言語を用いて表現された主に方程式のことです。しかしそれらは科学の進歩によって、時に変化を被ります。科学的原理ではない、何というか存在に関する原理というものは少なくとも西洋や日本では言葉で表現されていないと思うのです。なのでprinciple原理に関してはなかなか論ずるのが難しくはあります。
ただし便宜的に私がprinciple原理として受け入れているものはあります。それはdisciple弟子に与えられたdiscipline規律です。ヨーロッパ社会の原理原則はその源をたどれば多くがギリシャ時代にさかのぼります。とくにソクラテス、プラトン、アリストテレスの師弟によって伝えられたものです。ソクラテスは哲学者とされていますが、今は霊性の師(グル)と評価する人もいます。師から弟子discipleに伝えられたもの、特に規律disciplineが後に原理とみなされているのが西洋社会(の一部)ではないかと思うのです。そう考えるならば、私はサイババを師としていますが、私が熟慮を重ねて自分の人生に取り入れた彼の御教えは私にとってのprinciple原理なわけです。私が原理と受け入れているもの何なのか、つまり私の生活の一部となっているものが何なのかに関しては今詳しくは書きません。
建築家の磯崎新氏によれば、イギリス社会のprinciple原理は経験で、フランス社会の原理は理性で、アメリカ社会の原理は民主主義だそうです。彼は、日本社会には原理がないのではないかと述べています。強いていえば空(くう)でしょうが、現状それは原理として作用しているのではなく、空虚に継続されるゲームとして現れていそうだと、そんなニュアンスの文章を読んだことがあります。日本文化の特徴の一つに空(くう)というものがあったとしても、それは原理にまでは至ってないと。そういうところはあるでしょう。
日本文化として空(くう)をある面では尊重してはいますが、悪く作用すると虚無、空虚さへと行き着きますので、私はこれまであまり重視してきませんでした。そんな私が自らの人生の指針としてきた原理が、自らの人生で咀嚼してきたサイババの御教えであったのです。それがこの30年余りの私の人生です。そのおかげで人生に軸ができたのは確かです。
別にサイババの御教えでなくてもいいわけです。真に尊敬できる師に出会えたならば、その人の御教えに従って仮に人生を棒に振るようなことがあったとしても仕方ない、いやそんなことはないだろうと思える人に出会ったならば、その人の示す規律に従うのはいいでしょう。師からさずけられた規律を自分の血肉にしたならば、それは自分にとっての原理となります。
しかし実際には優れた師に出会うことは非常に困難です。さまざまにカルトの問題があります。師が自分にすべてを委ねなさいと言い出したら、警戒して逃げ出すのが妥当です。バガヴァドギーターはクリシュナからアルジュナに授けられましたが、それはクリシュナがアルジュナの全託を認めたからです。クリシュナが当時最高の人間だとみなしていたアルジュナがクリシュナに全託を認められたのは80歳少し前でした。アルジュナはクリシュナと若いころから長年付き合いがありましたが、非常に優れた人間であっても全託の態度を身に着けるのは長い時間がかかるものです。
原理とは師から弟子に与えられた規律のことなのではないかと今日は書きましたが、しかしながらそうはいってもでは原理とは何かといえばうまく答えることができません。強いていえば、それに従って生きられた何かのことなのでしょう。そしてそれは個人twamがブラフマンtatに融合する過程、あるいはそれを目指しての誠実な道のりのことなのでしょう。