日本では小中高校で12年間、もし専門学校や大学に行けば14年から16年、あるいはそれ以上勉学を重ねます。霊性の道を歩んでいて何らかの進歩を実感するためには、これと同じくらいは時間を重ねる必要があるのではないでしょうか。
霊性の道を歩む私より年配の知人と話をしていると、その方が「人間は本当に進歩をしない、昔のまま何も変わらない」とおっしゃっていました。私も人生の折り返し地点を過ぎたかと思いますが、同じような考えをもちます。人間として進歩したかと聞かれれば、どうだろうかと考え込んでしまいます。こんなことで解脱など可能なのだろうかと悲鳴を発する人も多くいます。
私は人間として進歩したかどうかはわかりませんが、霊性の道を歩むことでよかったことがあります。それはとても大きな達成です。それは何かというと心の平安です。世俗的なことで何かが得られたわけでもなく、人間として立派になったかどうかもわかりませんが、平安だけは獲得しました。それに加えて若干の精神の自由があります。
私はいろいろなことで苦しんでいたときに霊性のことについていろいろ知り、もうがむしゃらにいろいろなことを試みました。瞑想、唱名、奉仕、聖典の学習などなどです。がむしゃらにいろいろなことをやったので、どれが原因で今の平安が得られるようになったのかよくわかりません。だから、何が何かわからないまま私はこれまで試みてきたことをこのブログに書いています。
多分、霊的向上を得るにはそう多くのことを試みなくても、ほんの1つか2つでも本当にそれを深く理解した上で実践すれば十分なのだと思います。瞑想なら瞑想、愛を実践することなら愛の実践、感覚のコントロール(五感から清らかなもののみを摂取すること)なら感覚のコントロールです。
しかしながら着実さあるいは忍耐はどの道を進むにしろ必要です。10年、20年あるいはそれ以上の誠実な努力によって価値あるもの(平安、至福、英知、神の恩寵など)は得られます。
一人でも道を歩むことはできますが、長い道のりですので、同行の人がいればより楽しくそして楽に道を進めます。そのため「よき仲間」の重要性が説かれます。お釈迦様がサンガ(僧の仲間)を重要視したのはそのためだと思います。
※ブログのヘッダーに写真を入れました。先月山の中を通っていて撮影したものです。新緑がまぶしかったので思わずシャッターを押しました。