経験から学ぶ

 

 「賢者は歴史から学び、愚者は経験から学ぶ」というような言葉があったと思います。歴史は集団的行動、集団的知性に関係するもので、それに関する知見は1人の人間の知性を越えたところがありますので、歴史から学ぶことの利点が大きいのは確かなことです。経験から学ぼうとしても、そもそも自らの視野が狭ければ、独りよがりな結論しか得られないかもしれません。それは確かです。しかし謙虚な態度でもって、自らの経験を振り返り、過ちを認め、それを改めることができるならば、経験から学ぶことはできるでしょう。私は過去を思うことの多い人間ではあり、経験から教訓を得ようとしてきはしましたが、適切な学びを得ることが上手ではありませんでした。しかし経験から殊更学びを得ようとせずとも、自らが経験してきたことが何かに似ていると自然に思えることは多々あり、それが何かを突き止めることで結果として学びになっていたことがあります。今日はそれについて少し書いてみます。

 

たとえば私は自分が交差点のようなありようを示していたと思ったことがあります。たとえば私は自分が兵站のようなありようを示していたと思ったことがあります。たとえば私はサイババの乗る車の運転手のようなありようを示していたと思ったことがあります。たとえば私は木としてのありようを示していたと思ったことがあります。たとえば私はミミズとしてのありようを示していたと思ったことがあります。たとえば私は自分が変圧器のようなありようを示していたと思ったことがあります。これらは私の経験の一部です。

 

自らの交差点としてのありように関しては

aitasaka.hatenablog.com

で書いたことがありますので、そちらを参照していただければと思います。私は人が通り過ぎる1つの場であり、誰かがどこからか来て、どこかへと進んでいく1つの通過点であったわけです。

 

兵站(へいたん)としてのありようについてです。兵站とは軍事的な意味で用いられる言葉で、食料、武器弾薬の最前線への供給に関係することです。兵站の「兵」は兵隊を意味し、「站」とは中継地や宿場の駅などを表すようです。現代的な意味ではロジスティック(物流)の機能として語られることもあるようですが、そのような類のことです。自分が兵站のようなありようを示していたとは、何かが欠けているところにその何かを供給していたということです。私はおすそ分けやプレゼントを比較的する人間だとは思っていますが、そういう意味もありますし、また部分的に知識の供給にも少しかかわってきた面はあります。

 

サイババの乗る車の運転手としてのありようについて。ギータによれば内在者は主ご自身であり、人間の肉体は主を祀る寺院であります。人間としての意識(ある種のエゴ)は寺院の管理者として振る舞うときに正当化されるのではないかと思いますが、肉体の動く面を考慮して肉体を理解すると、肉体は主が乗る車であり、人間としての意識(ある種のエゴ)は車の運転手になります。主のご意志があって運転手は車を運転します。そのような強い実感があるとき、主の乗る車の運転手としての役割を果たしていると自らを規定することができます。

 

木としてのありようについてです。人間は動きますが、何らかの文化的養分のあるところに根差した成長を遂げていき、そこに焦点を当てれば、人間を木に例えることができます。木の究極的な目的は自分と同じものを作り出すことです。つまり種を作り、それがどこかにまかれ、根差すことです。それを果たしさえすれば、切り倒されて薪になろうが、果実を誰かに奪われようがまったく構わないわけです。木はそうと知らずに、誰かを強い日差しや雨から守っているかもしれません。それらに関して私は自分がどのような役割を果たしてきたかは知りませんが、木が何十年もかけて大きく育つように、これまでの人生において一貫して自らの文化に根差し成長してきたような気がしています。

 

ミミズとしての役割について。ミミズは土づくりをします。ミミズの多い土地は肥えているといいます。私は内省的であったので、さまざまな事柄に関してそれを咀嚼し理解しようとしてきました。もしかしたらその結果私がかかわってきた領域は少しばかりですが土が肥えたかもしれません。ごくごくわずかであるとしてもです。ミミズはそういうことを意図しているわけではないでしょうが、私もそういうことを意図してはいなかったにしろ、自らが望むことを行っていただけであるにしろ、結果としてそういう側面はあったと思うのです。

 

変圧器としての役割について。変圧器はある電圧の電流を異なる電圧の電流に変える器械のことです。世の中にはいろいろな背景の人がたくさんいて、それぞれの人はそれぞれの波長のようなものをもっています。エネルギーの強い人もいれば、あまり強くない人もいるでしょう。その人その人の歩んできた背景の違いは電流の違いに似ているところがあります。そのように背景の異なる人と接する時、強い圧力や不調和を感じることがあるのですが、それを自分に適切な形に調整して自分の中に取り込みます。そのようなありようのことを変圧器としての役割と呼んでいます。

 

たぶんどの人も自らのありようをこの世に存在するものに当てはめて理解することはできると思うのです。そのように理解する時、譬えられたものの普遍性に似た普遍的な教訓や学びを得ることができるかもしれません。このような形で経験から学ぶことは可能だと思うのです