お寺参りをして5

 

先日お寺参りをしてきました。私はそれほど深くお寺に関係しているわけではなく、盆と親の命日にお寺さんに読経をお願いし、年に何度かご法話を聞きに行くくらいです。宗教は宗教ですが、ご法話を聞くのはある種の文化活動に参加しているようでもあり、説法師の方は皆お話の上手な方で、題材は仏教特に真宗に関係するものですが、落語を聞いているような気軽さはあります。落語や講談を聞く機会は地方によってはほとんどありませんが、真宗でしたらそれに似たものを楽しめます。仏教の勉強にもなります。信心の助けにもなります。私は気軽に参加していますが、私はご法話を聞いている人の中で若い部類でしょう。また男性は女性に比べて少ないです。もっと多くの人にそのおもしろさが伝わり、お寺参りをする人が増えればいいのにと思っています。また個人的にはお寺に参らない人が仏教徒を自称するのはどうかと思うことがあります。今日は先日聞いたご法話に関連して書いてみます。

 

「明日ありと 思う心の あだ桜 夜半に嵐の 吹かぬものかは」(親鸞聖人)
親鸞聖人が9歳で得度されたときに歌われた歌だそうです。得度の日もう夜になり、その手続きを「明日にしよう」と得度を引き受けた寺の僧侶がいったときの歌だそうです。明日も桜は咲いていると思っているかもしれないが、夜中に嵐がやってきて散ってしまうかもしれない、という内容です。世の中は明日があることを前提として動いていますが、仏教は明日がないことを前提とした教えだと説法師の方はおっしゃっていました。サイババはおっしゃっていますが、この世は学校で死は最終的なテストであるとされます。そしてその死がいつ襲ってくるのか誰も知りません。明日があるという前提と明日がないという前提では思考や態度のありようは変わってくるでしょう。明日がないという前提での思考や態度を養うことの重要性を知っておいていいはずです。それは人生の意味や本質に関係しています。

 

仏教はその御教えを鏡として自分を知る教えだともおっしゃっていました。私からすれば仏教に限らず宗教の名に値するものは、その御教えを通じて自分を知る助けになると思います。サイババはReligion is realization.(宗教は実現です。)とおっしゃっていましたが、私はこれを、宗教はそれを通じて自己実現(解脱の類)を目指すものであると理解していましたが、それとは別に、宗教はその御教えを通じて自分を知る(realize)ためのものなのかもしれないと、ご法話を聞きながら思いました。

 

説法師さんは田舎のお寺のご住職でしたが、地方の田舎ではところによっては人が代々のお墓を維持するのが困難になってきているようです。それを踏まえて、人はお墓を残さなくてもいいのではないかとおっしゃっていました。自分は阿弥陀様の御名だけを後世に残していけたら、それでいいと。法然上人も蓮如上人もそういうことをおっしゃっていたようです。私も御名だけでも後世に伝えていくことができれば、それで十分かもしれないと思いました。

 

私は個人的に真宗は全託に関係する御教えだと思っています。実際に親鸞聖人や法然上人はその辺りのことを語っていたと思います。人は時ににっちもさっちも行かない状況に長く放り込まれます。仏様の種類は多くありますが、特に阿弥陀様はそういうにっちもさっちもいかない人を救いの目当てにしているようです。自分の努力で大きな困難なく人生を歩めている人は、なかなかそのあたりに気づけないかもしれませんし、真宗の御教えのありがたさにもピンとこないでしょう。

 

真宗は善悪(? はっきり記憶していません)や生き方の問題ではなく、(まかせ切ったかどうかの)安心の問題だと説法師さんはおっしゃっていました。これが正しい、間違っている。これがいい、悪い。こうすべきだではありません。安心が得られるための御教えです。この辺りは他の宗派と少し異なっているかもしれません。

 

ほんの1時間漫然と聞きながら、私の心に伝わってきたことはこれほどもあります。他の信者さんは同じ話を聞いて別のことが心に残ったでしょうし、それはそれでいいと思うのです。江戸時代などは田舎に文盲の信者さんはたくさんいたでしょう。そういう方々はとにかく話を聞いて、心に残ったものを後日、あたかも牛が草を反芻するように反芻しました。かつてはそういう宗教世界が日本にあったと思うのです。それで名もない人がかなりの宗教的高みに到達することもあったでしょう。このことも忘れてはならない日本文化の1諸相であると思います。