愛に生きる

日常生活から少し離れて内省の時間にふと浮かんだ思いを記します。

南無阿弥陀仏

 日本の浄土系宗派の御教えの要点は結局のところ南無阿弥陀仏の名号につきます。私もこの名号についていくたびか考えてきたのですが、1000年以上続く名号にまつわる教義についてすべてたどることはできず、今は限られた自分なりの理解でそれを大切にするしかありません。


 南無阿弥陀仏=南無+阿弥陀仏です。南無が人間で、人間と阿弥陀仏が一つになった姿が南無阿弥陀仏です。南無とは帰命するという意味です。私ではなくあなたという意味です。小さな私(エゴ)を手放すという意味です。簡単に言えば、個人としてのはからいを捨て、阿弥陀仏の慈悲や促しに人生を委ねる姿が南無阿弥陀仏です。言葉でいい表せば簡単ですが、阿弥陀仏の慈悲や促しに人生を委ねるということがどういうことなのかはなかなかわかりません。


 自分が何々の帰依者であると自称するのは好ましくないと聞きます。自分の帰依する神仏の御名を明かす必要がないということもありますが、それよりも、誰かが帰依者であるかどうかを決めるのは本人ではなく神仏の方だからです。現代では帰依というものが漫画やアニメのような単なるキャラクターでしかない「なんちゃって帰依者」がたくさんいると聞きます。真の帰依者ならば、つべこべいわず御教えをそのままの形で受け入れ実行に移すものですが、時代や自分の置かれた状況に合わせるために、換骨奪胎というのでしょうか、都合よく内容を変えてしまう人が結構います。


 もし特定の御名と御姿の神仏に帰依したいと願うのならば、御教えの本質を理解できなければ難しいのですが、どんなに不可能に思えても、御教えをそのまま誠実に実践に移す必要があります。そして何よりも大切なことは、自分が帰依者であると自称することは脇において、まずは「私はあなたのものです」と自分に言い聞かせなくてはなりません。


 帰依とはとどのつまり、エゴの否定により絶対者に融合する試みのことです。「私はあなたのものです」と主張できない人、つまり自分の都合を何よりも優先する人は帰依者であると主張することは決してできません。もしそれをしようとするならば、神仏はその偽善を許さないでしょう。そしてもし長年にわたって「私はあなたのものです」を実行し続けることができたならば、神仏の方からその内「あなたは私の帰依者です」といってもらえるかもしれません。


 南無とは自分を空にしてそこを阿弥陀仏で満たすことです。南無阿弥陀仏の名号はこのような意味を含んでいると私は思うのです。