思考と言葉

大学生時代に、哲学の授業だったか語学の授業だったかは忘れたのですが、教授が次のようなことをいっていました。「思考は言葉によって行います。思考と言葉は同じものです。」素朴な意見として、なるほどと思わせるものです。しかしながら本当に思考と言葉は同じものなのでしょうか?
 
今ブログを書いていますが、何かを書くときの書き言葉や、人と話すときの話し言葉の量は思考の量と等しいでしょうか? 私はブログを書く時2000字も書かないことがほとんどです。また私はツイッターをしていますが、そこで1週間に書く文字数も2000字を超えていないと思います。他にも人とメールやメッセージのやり取りなどをしますが、それもそれほどの量ではありません。1週間に書く文字数は5000字もないと思います。私はどちらかといえば口数が少ない方ですが、1週間にそれほどたくさんは話をしていないのではないかと思います。それに比較して、一週間の思考の量は「文字数」を計ることはできませんが、何倍あるいは何十倍もあるかもしれないほどです。心の中での独り言といえば独り言なのだけど、大体何らかの問題・課題・計画について考えています。たまに心の中が無になることがあるのですが、それでも木の葉が風に揺らぐのに似て、心のゆらぎ=思考があることが多いと思います。意図して強力に何かを考えているわけではありませんけれども。つまりは思考の量と外に表現された言葉の量は桁違いなのです。
 
思考した量を100とした場合、外に表現された言葉の量は2~3くらいかもしれません。もしかしたらもっと少ないかもしれません。しかしそうではあっても、私は思考したかなりの部分を言葉(と行動)で表現しきっているつもりです。つまり私にとっては言葉は思考の何十倍も密度の濃いものなのです。数学者の広中平祐先生は、「数学とは無限を有限で表現することです」とおっしゃっていますが、日本語などの言語においても、無限の要素があるものを有限で表現しているのが私にとっての言語活動です。外に表現された言語(と行動)量は私の思考量の何十分の1かもしれませんが、それで思考量の95%くらいは表現できています。私は内に残す・隠すものが少ないので、ある意味ストレスは僅かかもしれません。以上のような点で思考活動と言語活動は性質が異なります。私の言語活動が比較的わずかで済んでいるのは、自分にあった文体を獲得しているのも大きいと思われます。
 
しかしそれでも発せられる言葉の量は多いと考えます。私の書く文章は散文なのでしょうが、多少解釈の多様性がある詩の要素もあり、散文詩といえないこともありません。もし私の表現に今後変化が生じて、単語数が減るにも関わらず思考量のかなりを表現できるようになるとしたなら、それはより詩に近づくといえます。それは究極的にはマントラにかなり似たものになるのかもしれません。
 
マントラとは、多くの深い意味を含み強力な力をもつ言葉のことです。ヴェーダマントラこそがマントラの名にふさわしいのですが、それ以外でも、例えば日本語の南無阿弥陀仏マントラといえます。これは南無という言葉と阿弥陀仏という仏の名の二つが組み合わさったものです。南無=帰命という言葉には多くの多様な意味が含まれています。同様に阿弥陀仏に関しては聖典に多くの記述があり、それらの意味すべてが阿弥陀仏という御名に含まれています。「なむあみだぶつ」という7文字は莫大な意味を含んでいるのです。マントラとはそういうものです。
 
思考は想像=イマジネーションのレベルのものでしょう。外に表現された言葉は象徴=シンボルのレベルのものでしょう。思考は言葉によってなされているでしょうが、このように明らかなレベルの違いもあります。何を思考するか、どのように思考するかということや何を語る(書く)か、どのように語る(書く)かということは教育の検討課題にもなりえます。
 
思考に対して、外に表現された言葉はある意味「大雑把」で詩的なものです。であるがゆえに、それは聞く者や読む者に対して創造のきっかけを与えます。私は思考とはレベルの異なる言語表現活動に意義を見出しますが、他の方はどう思われますでしょうか? 思ったとおりに書いたり語るのは悪くはないですが、それでは伝わる内容が少なくなるという気がしています。