愛に生きる

日常生活から少し離れて内省の時間にふと浮かんだ思いを記します。

沈黙に導かれる

 人はしばしば迷うものです。人生において選択をせまられることがあります。私はそういうとき、よく考え込んでいました。しかしことによっては、いくら考えても結論が出ないことはあります。歳をとると考えることが面倒くさくなりました。しかしそれでもたまに迷います。そういうときにどういう道を選ぶか、今日はそれについて書きたいと思います。

 四六時中思考の渦にとらわれているのでなければ、人生の道の選び方の一つとして、沈黙を保てるように物事の選択をすることができます。

 私は普通の日本人よりは神様のことを考えてきたと思うのですが、神様に何か祈っても、返事が来ないのが普通です。神様は普通は言葉を用いないようです。いえむしろ沈黙という言葉を用いているともいえますが。沈黙は言葉の不在ではなく、言葉の一種なのかもしれません。

 沈黙とはそこに音や文字としての言葉がないわけですから、凡庸な私たちは普通は何も理解できません。迷いは迷いのまま。そう思えたりします。

 しかし神様との間に沈黙があるとき、私たちと神様は相対して向き合っているわけで、神様が言葉がけをしてくださらなくとも、神様との間に沈黙という静謐で濃厚な時間が流れているならば、その沈黙を維持するように人生の選択をしてみるのも手です。

 つまり、ある状況を目の前にして、Aという選択肢とBという選択肢があったとき、どちらの選択をしたほうが、自らの心が騒がず平安でいられるかを検討するのです。ある種の利害を中心に考えるのではなく、それらの利害を脇において、どちらの選択が私を平安でいさせてくれるか。あるいは沈黙でい続けられるか。あるいはもっと言葉を変えれば、静かな愛に満たされるか。

 こういう選択の方法もあっていいと思うのです。心の平安を選ぶことで、富や権力を手に入れられなくなることももしかしたらあるかもしれません。しかし平安そのものも富や力の一種です。

 どうでしょう。沈黙でい続けるように歩んでいく、それはとりもなおさず、神に導かれていることだと最近思うようになったのです。