神の遺伝子

 

ここ最近、少し思うことがありました。全託に関連してですが、そもそも親鸞聖人も親鸞聖人なりに全託について語っているとも受け取れますから、真宗にも関係してきます。真宗といえば最近は新しい領解文が話題です。しかし私は新しい領解文に関してはよく思っていません。蓮如上人の領解文こそが真宗の領解文だと今でも思っていますので、領解文そのものに関連してではありませんが、蓮如上人の領解文から一部引用して今日は書きたいと思っています。私なりにアイデアが膨らんだものでして、蓮如上人のお考えの解釈というわけではありません。

 

―もろもろの雑行・雑修・自力の心をふり捨てて、一心に「阿弥陀如来われらが今度の一大事の後生御たすけ候え」と たのみ申して候。
たのむ一念のとき、往生一定・御たすけ治定とぞんじ、この上の称名は、御恩報謝と存じよろこび申し候。

 

これは蓮如上人の領解文の前半です。ここにおいて「たのむ一念」という言葉が出てきます。人によりけりでしょうが、私は非常な苦しみあるいは困苦を経験してきましたので、何はさておき「たのむ」という言葉がもつ意味がそれとなく伝わってきます。もうあなたしかたのむ相手はいないと困窮極まった時の「たのむ」です。真宗ではこの「たのむ一念」のとき往生が定まるとされます。

 

真宗では阿弥陀様をたのみます。別に阿弥陀様でなくてもかまいません。経文類があるからそれをもとに真宗では阿弥陀様にたよるのが正当だとしているわけで、経文類がなくても、人は自分が最も愛するお方、御名をたのむことがあります。その場合でも理屈は同じだと思います。神仏は自らをたのむものを決して見捨てたりはしないでしょう。

 

さて私の場合ですと、にっちもさっちもいかなくなり、自分は病で普通並みの力がなく、どうにもならない状況にあったわけです。そこで私は私の愛するお方をたのむわけです。私がたよったお方は助けてくださいました。今も助けてくださっているでしょう。私がたより続けていくならば、今後も未来永劫にわたって助け面倒を見て下さるでしょう。私にはさまざまに欠けている部分が今もあるわけです。普通の人並みにやっていくにはかなりの困難を伴うわけです。しかしながらなぜだか何とか生活していくことができています。私に欠けている部分を私の愛するお方は補ってくださっている。そういう実感があります。欠けた部分がある私の存在とそれを補ってくださるお方との相互作用により、私の愛するお方の一部が私の一部になったわけです。つまり今現在の私は、ただの欠損のある私ではなく、私の愛するお方からある種臓器移植を受けたかのような、あるいは一種の生殖に似て愛するお方の遺伝子の一部が私の一部になったかのような状態にたとえることができます。

 

人は無機物から植物へ、植物から動物へ、動物から人間へと進化してきました。そして最後に人間は神仏に等しいものへと進化してその進化の旅を終えるといいます。人間から超越者(神仏)への進化の道はさまざまでありましょう。しかしながら、私のような何かが欠けた人間が進化を求めるならば、ただ「たのむ」「たよる」しか他にありません。私がたのんだ時、慈悲の御手が差し出され、その恩寵をありがたく受け取り、その恩寵を真に活かしたならば、私に欠けた部分は超越者の一部で補われ、私は彼の遺伝子を自らの内に取り入れることができます。これが帰依全託の道です。まったく正統ではありませんが、私なりの真宗理解の一解釈ともなりえましょう。

 

遺伝子が自らの一部となるとき、それは血のつながりがあるといいますが、そのように近しい関係を心の内に感じていなければなりません。人の中には、超越者とそのような関係があると感じている人が少しはいます。私の経験からいえば、それは真にたのんだ人こそが実感できるものです。もちろん先ほども述べたように他の道もあるわけですが、私には私のたどった道しか語りえないので、今日は参考までにそのことについて触れてみました。もし仮に私の遺伝子が彼のものですべて置き換わることがあるならば、それもモクシャ(解放)、融合とされるものでしょうが、人はこの道を検討してみる価値はあると思います。