愛に生きる

日常生活から少し離れて内省の時間にふと浮かんだ思いを記します。

信仰1

 私の今年のテーマは「信仰」でしたが、徹底的に探求したというほどではありませんが、1年ほど前よりは理解が深まったという感じでその点は良かったと思います。信仰が深まれば、おそらくは世間への関心が減ると思うのですが、少しばかりは減りました。インターネットでニュースを見る機会は3分の1くらいは減りましたし、一つ一つの事件に心が揺さぶられることも。
 
 「信心という言葉には、心という字が使われていますから、心の問題のように思っておられる人が多いようですが、信心はこの身の問題なのです。親鸞聖人は「愚身が信心」といわれ、蓮如上人は「わが身の一心」と、この身があきらかになることを信心といわれたのです。 藤田徹文」
 
 真宗に関するこの藤田氏の言葉は啓発的です。信心、私にとってはほぼ信仰と同義ですが、これは心の問題ではないということ。身の問題であるということ。最近は読むことはありませんが、かつては学者のかたが宗教について論じた本を読んでいました。非常にわかりにくいものです。なぜなら知的な理解、思考=心のレベルの問題を述べているものがほとんどですから。藤田氏によれば、それらの本に書かれていることは信心=身の問題とは異なるので、それらを読んでも人が信仰を育むことはほぼ難しいと思われます。

 「身」とは「身体」のこと(しかし肉体とは異なる)。妄想が消えるのと身が明らかになることは関係していると思うのですが、思考の活動がある程度減ってこなければ、信仰心があると人が主張することはできません。
 
 人生は身に引き受けるもの。私が語らずとも、人生は苦楽でできた谷と山を下ったり上ったりするようなもの。体験以外の何物でもありません。真の学びもその中にしかありえず、その点は万人が平等です。誰もが二本の足を引きずって100年かそれに満たない時間を歩み続けます。サティアサイババの前にシルディサイババがいました。約100年ほど前に肉体を去った方ですが、その方の御教えのエッセンスは「信仰と忍耐」であるとされます。この二つが欠けていれば、人生を満足のうちに生き切ることはほぼ無理といっていいようなものです。
 
 似た言葉があります。信仰と帰依。違いにそうこだわる必要はありませんが、やはりちょっとした違いはあります。ここで一言触れておきたいのは、信仰なくして帰依というものはないのではないかということ。何よりも信仰が第一です。
 
 信仰がわからない人は、容易に盲信や狂信に走ります。しかし信仰とはこういうものと伝えるのもなかなか難しくはあり、盲信や狂信の問題を解決する術を今の私はもっていません。ただ最後に書いておきたいのですが、信仰がきざした徴は、心が明るくなったこととのこと。それは間違いないように思うので、もし自らの心が明るくないならば、それは信仰ではなく、盲信や狂信あるいは無信心、あるいは信仰を育む途上であるといっていいかもしれません。なかなか信仰をはぐくむのは難しくあります。