帰依者と霊的探求者

 帰依者(devotee)と霊的探求者(spiritual seeker)という2つの言葉があります。基本的には異なるものを示していますが、重なる部分もあります。


 私自身を振り返ってみると、このブログに取り上げているようにさまざまな霊的なテーマに関して思索を行い、そしてできる限りの実践を試みてきました。そのありようは霊的探求者に近いといえそうです。日本には霊的なテーマに関して優れた実践者が見当たらず、あるいはいたとしても私と用いる用語が異なるためでしょうか、理解がなかなかできないことが多々あります。なので霊的なことに関しては、個人レベルで一から積み上げてきたところがあります。自分の納得のいく理解と表現を求めてきました。必ずしもこのような探求を望んだわけではなかったのですが、他に手本がいないがゆえに自ら試みてきたといえます。


 一方で帰依者と呼ばれる存在があります。自ら帰依者を自称すべきではないと最近書いたことがありますが、帰依者を目指すことはできます。私なりに表現すれば、帰依者とは神がやってはならないということをせず、神が勧めることを行う人のことです。霊的探求者はその内面が少し複雑ですが、帰依者は比較してシンプルです。


 例えば肉魚を食べるなという指針があるならば、理屈をつけずにそれに従う。例えば、毎日瞑想をしなさいという指針があれば、生活をやりくりしてその時間を作る。奉仕をしなさいという指針があれば、限られた時間やお金を適切に活用して自らにできる形で奉仕に取り組む。優しい言葉遣いをしなさいという指針があれば、その通りにする。中学生レベルの国語力があれば紛れなく理解できることを紛れのない形で実行に移すだけです。帰依者とはそういう人のことです。


 帰依者は霊的探求者と比べれば行動的な面があります。霊的探求者はより思弁的です。簡単なのは帰依者を目指す方で、簡単なだけでなく、おそらく得られる恩寵も帰依者のほうが多いでしょう。考えるだけでなく行動が伴っているのですから。


 帰依者が神の教えを実践に移そうとして試行錯誤しても生活の事情などで困難に直面することがありますが、その困難を取り除くために探求を行うことはあります。しかし基本的には難しいことを考えずに、もし信仰心・帰依心があるのならば、行うべきことはただ行うだけのことです。帰依心とはそういうものです。


 私は望んで霊的探求者になったわけではありません。一帰依者を目指したいとずっと思ってきました。神はそれほど難しいことを要求しないものです。できるだけシンプルな人間でいたかったのです。強いていえば人生の苦痛が私を探求に駆り立てたといえます。


 思弁・口先だけで実行を伴わない帰依者は形容矛盾です。このことを忘れないでいたいものです。