愛に生きる

日常生活から少し離れて内省の時間にふと浮かんだ思いを記します。

神に面倒を見ていただくための条件2

以前「神に面倒を見ていただくための条件」という題で記事を書いたことがあります。

aitasaka.hatenablog.com

帰依者がどのような条件を満たせば神は帰依者の面倒をすべて見てくださるのかということに関してです。ごく大雑把にいえば、常に神を思い、神への礼拝として人生すべてを捧げものとすることによってそれは可能だろうと書きました。自らの思いと行為がすべて神のものであるということです。言葉は口(舌)による行為であり、行為の一部分をなします。

 

さて、今日はこれに関連したことを書きます。私は奉仕に関心をもっています。日本で奉仕といえばボランティア(自発的な行為)という言葉が用いられることがほとんどで、それを決して否定するわけではありません。ただ今奉仕という言葉で伝えたいのは、seva(セヴァ、サンスクリット語)=service(サービス)=世話の意味での奉仕です。serviceと世話はsevaから派生した言葉です。本来同じ意味をもち、それは奉仕です。奉仕という言葉をservice、もう少しわかりやすくいえばcare(ケア)という意味で用いたいのです。奉仕はホームレスの人や病気などで困っている人を助けることです。また家事によって家族の世話をすることも当然serviceであり奉仕です。誠実で着実な仕事も奉仕です。奉仕(seva)はいわゆる奉仕だけでなく、もっと豊かな意味を含んでいます。

 

奉仕とはホームレスの人や生活に困窮している人、あるいは一時的にでも困難を抱えている人に対して手を差し伸べ、その人が人間としてふさわしく生きれるように助けることです。困っている人、問題を抱えている人などが奉仕の対象です。ニュースで流れなくても、世界には困っている人がたくさんいます。少しばかり人生経験を重ねた人ならばわかることでしょう。つまり奉仕をする意志があるとは、これらの人に寄り添うことを選ぶことでもあります。私はかつて街を自転車で走っていた時、ホームレスの人のそばを通り過ぎました。通り過ぎるときにその人がホームレスであることに気づいたのですが、自転車に乗っていた勢いでその人を無視してそのまま通り過ぎたことがあります。無視してしまったことで心が痛み、彼のような人に即座に寄り添えないのならば自分が奉仕に関心があるとはいえないのではないかと思ったことがあります。もう10年以上も前のことです。その時の記憶が最近蘇り、ふと「奉仕をする意志があるとは、世界の最後尾(しんがり)の人と共にあることを受け入れることである」との思いがわきました。奉仕をする人は、世界の最後尾を喜んで歩む人なのです。

 

さて、世界の前方を歩んでいる人はその人の周囲を取り囲むものによって守られるでしょう。社会の制度や人間関係あるいは富や地位などによって守られるということです。では世界の最後尾を歩む人は何によって守られるでしょうか?自分の後ろには何もありません。おそらくそういう人は神様に守られているのです。私は高所恐怖症で、高い建物から外をのぞくことや大きな川にかかる橋を歩くのが苦手です。しかし大地の上を歩いているときはまったく不安がありません。地に足がついている感覚があります。一方高いところでは人工物によって守られています。それに似て、世界の最後尾にいるときは大地に足を踏みしめているような感覚があるでしょう。

 

奉仕とは奉仕の相手への礼拝であるといえます。相手の内に愛する神を見るならば、それは神への礼拝です。そして奉仕をするとき神に守られているという安心感・実感が私にはあります。奉仕は神への礼拝と神を思う時間を与えてくれます。つまり奉仕する相手の内に神を見るならば、それは神に面倒を見ていただくための条件を満たすというわけです。奉仕はそもそもどの宗教でも指針とされるものです。どの名の神仏を掲げる宗教であろうとも、奉仕を行うことはその御教えにかなうものです。

 

神を思いながら奉仕する。それも世界の最後を歩む人とともにいる。そして奉仕をすべての行為を神への捧げものとして行うもののことだと読み替えれば、これは私が長い間求め続けていた神の保証を与えます。奉仕という言葉はほんの2字ですが、そこには多くの意味が含まれています。私はそのごくわずかしか理解していませんが、そのごくわずかでも実践していきたいと改めて思ったのです。