ダルマの要素

インドには特有の言葉が多くあります。その一つにダルマがあります。ダルマはダルマとしか表しづらいので英語の単語にもなっているようですが、あえてそれを日本語にするならば、正しい行い、人としての本分、正義のような意味です。日本では仏法といいますが、いうならば仏法とはお釈迦様がダルマについて語ったことと理解することができます。男性のダルマ、女性のダルマ、学生期・家長期・林住期・遊行期のダルマ、ヴァルナやジャーティ(生まれや出自)に関するダルマなど、基本的に体に関係していて、その体を保護するために必要な行動規範のようなものともいえます。何がダルマ(正しい行い)で何がアダルマ(正しくない行い)かは簡単なようで難しい問題です。ダルマは普遍的な概念であると同時に文化によってその適用に大きな違いがあります。

 

ダルマについてインド人のアプローチで考えてもいいのですが、それはなかなか難しい面があります。今日はもっと簡単な日本人でも受け入れやすい考え方を紹介します。といっても、私の個人的な考え方に過ぎませんけれども。先日料理研究家土井善晴氏の“人間の暮らしでいちばん大切なことは、「一生懸命生活すること」です。”という言葉を見かけました。ここに「一生懸命生活すること」とありますが、私はこの一生懸命生活することがダルマの8割位を占めているのではないかと思っています。現代人は忙しいので、家事にあまり時間を割けれないかもしれませんけれども、それでも食べることや掃除、洗濯などは多くの家庭で行われているでしょう。またこれらの生活を維持するために適切な手段で収入を得ることも必要です。外食をすると出費がかさむので私も家で食べ物を整えるのが基本です。掃除や洗濯もします。敷地が少しばかり広いので、庭木を管理したり家庭菜園に少し時間をかけています。中途半端なことしかできてはいないのですが、中途半端なことでもこれだけしようと思えばかなり大変です。自分なりに一生懸命生活しているつもりです。あるいは暮らしているつもりです。

 

よく聞きますが、就活、婚活、終活などの言葉があるように生活とは生きる活動です。生きていなければ生活ではないでしょう。どういう活動に携わるときに生きているといえるのか、あるいは生きている実感があるのかは人によって違いがあるでしょうが、私は自分の創造性が少しでも発揮されているときに特に生きている実感を感じます。料理や編み物、野菜づくりなどはそういうことに関係します。体を動かすことは大切です。若い頃は頭で考えることがもっぱらでしたが、年をとってからは体を動かしながら考えることの楽しさに気づきました。そしてそれで思考のレベルは下がりません。むしろ現実的な思考ができます。豊かな思考も生活の恵みです。

 

私は時間があるときに時に公園に足を運びますが、公園では多くの親子が遊んでいます。見ているだけでこちらも楽しくなります。子どもの仕事は遊ぶことですが、子どもが遊んでいる姿を見続けていると、大人の仕事も遊ぶことなのではないかとふと思えてきます。人間の活動はすべからく遊びから派生したもので構成されているのかもしれないと。ダルマにおいて最も大切な規律は男女間の規律であるとされますが、これさえ気にして守っていれば、「遊びから派生した活動」で生活を満たしていいのかもしれません。ビジネスも人によってはある種のゲームですし、料理もそうです。近所の人との会話もそうでしょう。私は地域の山を歩いたり、自転車で行けるところまでサイクリングをしていますが、気晴らしでありながらそれが地域を深く知るきっかけになっています。人の数だけさまざまな遊び=活動が考えられるでしょう。そしてダルマとはそれらの遊び=活動のルールのようなものでもあります。子どもを見ていればわかりますが、遊びには多少なりともルールが備わっているもので、人間の活動もルールが備わっていてこそ社会に受け入れられます。

 

一生懸命生活すること、遊びから派生した活動、これらはダルマを考えるきっかけになると思います。ダルマという言葉はインド文化の深みを湛(たた)えている概念ですが、生活や遊びもダルマの要素の一部を含んでいるのは間違いないはずです。それらを踏まえれば、ダルマ=社会における規範に関する学習が一層進むことでしょう。仏教でいう末法とはダルマが廃れた時代のことですが、ダルマが社会の規範として再び機能することは末法から正法の時代へと時代が進むことでもあります。