霊性における熟睡状態

 

先週書いたことに関して少しばかり補足のようなことを書いておきます。人には、感覚が活発に活動している覚醒状態にいる人、意識は内に向いているけれども夢を見ている人、そして内なる世界に生き続けている熟睡状態の人がいるという文章を引用しましたが、今日は熟睡状態に関して私が思っていることについてです。

 

まず感覚が活発に活動しているとか、感覚のコントロールということについてですが、これが何を意味しているかわからない人がいるかも知れません。視力を失った人でない限り、すべての人が目を開いた時そこに世界の映像が映し出されるわけです。聴覚に関しても同じく聴力がある限り、すべての人は耳で音をひらっているわけです。このような状況において感覚が活発に活動している、あるいは感覚のコントロールという言葉で何を表現したいのでしょうか? 例えば目の前にハンバーグ定食があったとしましょう。人によってはそれを見て無性に食べたくなって我慢ができない人がいる一方、それにまったく関心を持たない人もいます。私は長年菜食をしているので、ハンバーグ定食を見ても食べたいとは思いません。つまり感覚が活発に活動している人とは、感覚器官が知覚したものによって人の行動が半ば否応なく影響を受けている人のことです。それに対して感覚をコントロールしているとは、人の行動が感覚器官が知覚したものからかなりの程度独立していることです。感覚したものによって欲望がかきたてられていないといってもいいでしょう。心にある欲望をすべて消し去ることはかなり困難な仕事ですが、仮に欲望が残っていたとしても、その欲望を駆り立てる恐れのあるものを見たり聞いたりしない、避けるということも感覚のコントロールです。これを踏まえれば、熟睡状態にある人とは、感覚を完全にコントロールしている人のことを意味します。熟睡状態に達するために視力を失ったり聴力を失ったり食を断つ必要があるわけではありません。何を見るか、何を聞くか、何を食べるかは重要であるとしてもです。

 

熟睡状態にいる人の世界とはどういうものかについて私の推測も踏まえて書いておきます。

 

感覚が閉じている、つまり感覚に引きづられることがないとは、簡単にいえば心が自由なわけです。感覚に引きづられるとは感覚の奴隷であることを意味しているからです。内的世界が自立していて、内面で起こっていることが世界の大半になります。外界は時に曖昧に見える内界の出来事を確認するためのある種の証拠を提供します。内と外とには対応関係があるのですから。世界はすべて内にあります。内なる世界で完結している人はアートマを少なくとも部分的には実現しているのでしょう。自身つまりアートマの状態で居続けることは取りも直さず世界をコントロールしている状態です。奉仕の定義の一つに、「自分自身で居続けること」というものがあります。自分で居続けることは世界をコントロールしていることで、それ自体が世界に対する奉仕になります。

 

もう一つ私が思う熟睡状態を述べますと、その人の生活のすべてが神と関係づけられている状態のことです。呼吸や睡眠、食事、排泄、仕事、レクリエーションなどがすべて神との関係で行われます。すべての行為が神に捧げられている状態です。24時間神を思って過ごす日々のことです。何かを口にするときは、神に感謝し、神を思いながら、神=食物を体に取り入れているでしょう。髭を剃るときには、神が内在している自らの身体をきれいに整えている、あるいは他者=神を不快にさせないように努めているでしょう。何らかの仕事をするときには神に捧げるにふさわしい質の仕事を心がけているでしょう。他者に接するときは、その他者を神の表れと見ているでしょう。呼吸しているときは、ソーハム(それ=神は私である)と思いながら呼吸しているでしょう。このようにありとあらゆる活動が神と関係づけられます。神以外に認識しないのですから、その人は感覚に振り回された状態=神を忘れた状態でないはずなのです。

 

本当に24時間そういう状態にいる人は、ラマナ・マハリシのように何年も座り続けている状態、サマディ(三昧)の状態にいるのでしょうが、そうでない人、中途半端な熟睡状態にある人、夢見状態と熟睡状態をいったり来たりしている人は、おそらくおおむね何らかの義務を果たし続けているのではないかと私は思っています。

 

欧米人が座り続けているラマナ・マハリシに向かって、あなたは何の役に立っているのかと問うたことがあるそうです。私のようなものでもわかることは、おそらくラマナ・マハリシは神聖な雰囲気を漂わせていただろうし、自らだけでなく周囲の人をも平安にしていただろうと思います。肉も口にしなかったので、欧米人のように意味のない殺生もしていません。石油などのエネルギーの無駄な消費もしていませんし、さまざまな資源を有効に活用していたはずです。ラマナ・マハリシは量において何か偉大なことを成し遂げたわけではないかもしれませんが、ラマナ・マハリシを非難した欧米人の想像も及ばない質の高い生活を自ら生き、他者にそういう生活へ至るためのインスピレーションを与え続けていました。インド人はラマナ・マハリシを理解しますが、他の国には彼を理解する人は滅多にいません。日本にラマナ・マハリシがいたとしても、緘黙(かんもく)の精神異常者と診断されるのかもしれません。