愛に生きる

日常生活から少し離れて内省の時間にふと浮かんだ思いを記します。

御名3

 前回、感情は人と世界を結びつけるものだと書きました。この世に生まれてきた以上、この世とのつながりは大切なので、感情の役割は重大だといえます。


 一方で人は神とも結びついておくのがふさわしいと私は常々思っています。この世界や人間を作り出した存在が神です。たとえば人間の体の細胞一つ一つの働きは驚異的です。人間が意図してもこのようなものは作れません。誰かそれを作った方がいます。無神論者は神を否定しますが、自然の働きそのものを否定することはできないはずですし、人間がそれを作ったとも主張できません。神の代わりに「自然の働き」という言葉を用いるかもしれませんが、それも神を別の言葉で言い換えたものです。


 人間は神とも結びついておかなくてはなりません。親の養育を受けなかった人間はジャングルで育てられたも同然ですが、神から離れた人間も同じくジャングルで暮らす粗雑な人間に似ています。見かけを取り繕ってもそれを隠すことはできません。


 人間と神を結びつけるものはいくつかあるでしょうが、私のおすすめはやはり御名(みな)です。南無阿弥陀仏ブッダ、イエスなどなど、いろいろな御名があります。キャンディーには味がついていて、それを舐めるとその味を味わうことができますが、それと同じで、神仏の御名にはその御名が体現する神仏のエッセンスが詰まっています。肉体は食物を必要としますが、それと同じかそれ以上に頭脳は神を思うことを必要とします。頭脳にとっての食物は神といっていいほどです。


 神仏の性質を身につけたければ、神仏を「食べる」こと、つまり神仏を憶念するに限ります。神仏と一つになるために、最も効果的な方法です。


 私は今ではそれほどの困難もなく御名を唱えることができますが、かつては御名に集中するのが困難で心がさまざまに散っていた時期がありました。あたかも赤ん坊が目の前に食事を出されても、それに集中できず食べ物を散らかしまくるのに似てです。今では心の平安を味わいたいときは静かに御名に集中するようにしています。


 沈黙でいれるように人生を選択したり、神を喜ばすように人生(行為)を選択するのと同じように、神の御名に集中できるように人生を選択することも大変有意義です。即物的な人は御名とは単なる音あるいは文字に過ぎないというかもしれませんが、実質においては神仏そのものとまったく変わりのないものですらあります。神を土台に神とともに生きることと御名ととともに生きることは同じといって過言はないでしょう。そして真に価値のあるものは皆タダなのです。