愛に生きる

日常生活から少し離れて内省の時間にふと浮かんだ思いを記します。

感謝

 至らぬところもある人間ではありますが、そして自分でいうのも何ですが、私に備わる徳に、忍耐と謙虚さがあると思います。50年近く生きてきた中で、多少なりとも育まれてきました。私よりも厳しい苦難を忍耐心で乗り越えてきた人もいるでしょうし、私よりはるかに優れた人で私より謙虚なケースもあるでしょうが、平均的な人間よりは忍耐心と謙虚さのある人間だと自分のことを受け止めています。


 忍耐心と謙虚さはこれからも深めていきたいと思っているのですが、その他に育んでいきたい徳として「感謝」があります。感謝に関してはおそらく平均的な日本人程度にはあるかもしれませんが、人生を歩んでいく中でさまざまに自分が恵まれているなと気づく機会が増え、感謝の心をもっと深めていった方がいいのではないかと思うようになりました。


 日本語では「ありがたい」といいますね。浄土真宗の人が「仏様がありがたくなくても、その慈悲は有り難い」といっているのをきいたことがあります。あまり宗教に関心がない人は仏様をありがたがる気持ちが湧いてこない、つまり仏様がありがたくなくても、仏様が私たちに向ける慈悲は他に比較するものがない、つまり有るのが難しい=有り難いということです。神仏の恵みに気づく感受性がなければ感謝の気持ちは湧いてこないものです。


 私は同世代の日本人と比べてどうでしょうか? 極貧というわけではないのですが、どちらかといえば物質的・社会的には恵まれていない方といえます。他の人と比べる必要はないのですが、若い時期ほど人と比べたがる傾向があって、その名残で感謝の気持ちが深くなかったのかもしれません。


 「一億円がないことを悲しまず、食物のために十分なお金があることを幸福に思いなさい。自動車がないことを不幸に思わず、足があることを幸福に思いなさい。蛇にかまれたことを悲しまず、そのために死ななかったことを神に感謝しなさい。」
という詩があります。まさにこの通りです。私などは病気に苦しみましたが、苦しむ間にも命を守られてきました。


 目の前にあるものや人に一つ一つ感謝の気持ちをもたなくてはなりませんね。この文章はパソコンを前に書いていますが、パソコンが家にあって、電気が家に来ていてパソコンが動き、思考を整理しながらきちんと文章を書き上げる気持ちの余裕が与えられています。すべて感謝に値するものです。食事を摂る時、食べるものがあることはもとより、食器やテーブルなどが家にあることに感謝しなくてはなりません。物事を理解し計画する知能・知性が与えられていることにも、家族・親族のつながりがあることにも、何もかもが感謝すべきものです。日本は比較的恵まれた国だと思うのですが、そういう環境にあると得てして恵まれていることを当然と受け止め、感謝の気持ちが薄れます。日本という国にも感謝しなくてはなりません。


 感謝の気持ちを育むということを続けていけば、神仏の恵みに思いは行き着きます。飲む水があるのは、自治体が上下水道を整備してくれていることもありますが、自然の恵みにより雨がふらなければ困るわけです。太陽が一日の半分、世界を照らしてくれていることにも感謝しなくてはなりません。必要なぬくもりと活動に必要な光を与えてくれるのですから。


 他者や神仏との関係を育む出発点として感謝は大切に思うのです。他者や神仏との関係が肯定的なものでないと感謝の気持ちは出てきません。同世代の人と比べて私は物質的・社会的に恵まれていないのではないかと書きましたが、それでも家の中に必要もなく買い込んだものがあったり、有効に活用していないものがあったりします。多くの人間関係は煩わしく感じるのですが、それでもほどほどの人間関係に恵まれていると思います。


 感謝の気持ちを育むとは、ただ周囲の人や神仏にありがとう、ありがとうという気持ちをもつだけでなく、今あるもの、状況、能力などなどすべてを有効活用してこそでしょう。そういう意味では、私は今あるものをこれまで十二分に活用してこなかったことの裏返しとして、感謝という徳がそれほど身についていないのかもしれません。そのあたりを踏まえて、ある程度の時間をしっかりかけて感謝の気持ちを育めればと思っている次第です。