愛に生きる

日常生活から少し離れて内省の時間にふと浮かんだ思いを記します。

神と帰依者の関係

 一つの考え方なのでしょうが、神は帰依者あってこそという話を聞いたことがあります。西洋の神つまりGodはすべてを超越した孤高の存在のような印象を受けますし、私もかつてはそういうイメージをもっていました。しかし、神という概念は帰依者の概念とセットになって初めて意味をもつと受け取る人もいます。つまり神を愛する人(帰依者)がいて神が存在し、神がいてこそその慈悲や愛を感じる人(帰依者)が存在するのだと。私はこの考えは一理あると思います。

 インド哲学の最高峰は不二一元論、つまり唯一者のみが存在するというものであって、つまり私たち普通の人間が思うような多様性はそもそもの最初から存在しておらず、唯一のものが唯一の状態を保って太古から存在し続けているだけであるわけです。そこでは神と帰依者という2つのものはありません。ただ一つしかないものを対象化してそれを神と呼ぶ別個の存在を仮定することは不二一元論ではなく、つまり神という概念は二元的な思考によって生じた概念なわけです。そしてその神は帰依者と対になるものです。

 社会学者は社会について研究します。社会とは目に見えず、一見とらえどころのないものであって、しかしながら私たちは素朴に社会の存在を理解できます。社会学者は社会の性質や構造を調べます。おそらく農村の社会と都会の社会は異なるでしょうし、日本の社会とアメリカの社会、インドの社会、アフリカの社会も異なるでしょう。社会学者たちの研究内容を理解しているわけではありませんが、おそらくは社会学者たちが主張していないであろう社会の構造について私にも考えがあります。

 おそらくは人類のすべての社会は、神と帰依者の関係を骨格として形成されているのです。神と帰依者の関係は、傘における骨のようなもの、人体における背骨のようなものです。それがなければ社会は確かな構造と力をもちえません。神の恩寵は帰依者を通じて社会に注がれ、社会が真の恩恵をこうむるのは帰依者を通じてです。神は大海のようなものですが、帰依者は大海から蒸発してできた雲のようなもので、人間の飲み水のほとんどは雲からもたらされるのと同じで、社会にとって本質的なものは帰依者からほとんどがもたらされるのではないでしょうか?

 日本人は神というものを考えることが他国に比べてあまりないかもしれません。それはつまり帰依者というものが比較的少ないからであって、日本人は仏教の影響もあってか、どちらかといえば英知の道、思弁の道を好む人が多いのだと思います。英知の道が間違っているわけではありませんが、帰依の道よりも難しく途中でその道を断念せざるを得ない人が多いのは残念なことです。そして日本社会は、神を愛する帰依者たちの多い国の社会と様相が異なっているのは間違いないような気がします。英知の道を好む人は帰依の道を好む人と比べて、自分で何でも何とかしようとする傾向が高いと思いますが、日本にはそういう人が多くないでしょうか?

 神でなくとも仏でも構いません。浄土系は帰依を勧める宗派です。

 帰依とは神への愛のことであり、神への執着のことであり、神との関係が整いさえすれば、他の人との関係は自動的に調整されます。神のことをいつも思っていさえすれば、さまざまな問題もほぼ自動的に整理されていき対処が容易になります。聖者とは神を決して諦めなかった人のことだという言葉もあります。

 神を真に愛する人が残酷なこと悪逆なことをするのは、一般の人に比べてかなり少ないでしょう。彼はより道徳的である可能性が高いです。以前このブログで「世界とは道徳秩序の別名である」と書いたことがありますが、つまりこのことは「世界は神と帰依者の関係によって構成されている」といいかえることができます。