籠(かご)と水

 久しぶりに真宗の教えに関することを書きたいと思います。
 『蓮如上人御一代記聞書』(現代語訳:本願寺出版社)の中に次のような話があります。
 ある人が「私の心はまるで籠に水を入れるようなもので、御法話を聞くお座敷ではありがたい、尊いと思うのですが、その場を離れると、たちまちもとの心に戻ってしまいます」と蓮如上人にいったそうです。すると蓮如上人は「その籠を水の中につけなさい。わが身を仏法の水の中に浸しておけばよいのだ」とお答えになったとのこと。

 おもしろい話だと思います。尊い話を聞いても、少しするとそのときの感動が薄れ、元の生活に戻っていくことは多々あります。普通人の心はそういうものです。確かに、籠に水を入れてもこぼれていくばかりで、それと同じように尊い教えも片方の耳から入ってきたと思ったら、もう片方の耳へと抜けていきます。

 うろ覚えで正確でないと思うのですが、インドに次のような話があったと聞きます。ある三つの神像の彫刻のできばえを確かめるように王様から依頼された人が、一つ一つの神像の耳から糸を通したそうです。一つ目の神像は片方の耳から糸を入れるともう片方の耳から糸が出てきて、二つ目の神像は片方の耳から糸を入れると口から糸が出てきて、最後の神像は片方の耳から糸を入れるとのどを通っておなかに入っていったそうです。そして次のように言いました。「最初の神像は聞いたことが耳から耳へと筒抜けで、二番目の神像は聞いたことが口から出てくる、つまり聞いたことをぺらぺらとしゃべります。最後の神像は聞いたことを自分の身に取り入れます。最も優れているのは最後の神像です。」

 聞いたことが耳から耳へと抜けていくのが蓮如上人の話にあった人。聞いたことが口から出てくるのは、聞いたことを人にしゃべって説教する人、聞いたことを身に取り入れるのは聞いたことを実行に移し身につける人のことで、最も優れているのは聞いたことを実行に移して身につける人のことだというお話です。

 しかし聞いたことが耳から耳に抜けることはよくあること。蓮如上人のお答えが優れています。「籠を水の中につけておきなさい」ここでいう水は蓮如上人によると仏法の水のことですが、そういわれても仏法の水につけておくということがどういうことなのか判りにくくはあります。

 私の受け取りとしては、籠は頭のことです。最近人間の頭脳は籠というか笊(ざる)のようなものではないかと思うことが多々あります。水とは何か? 私はそれはハート(胸)から湧いてくる愛と受け取っているのですが、あるいは聞いた教えをわからないなりに絶えず憶念することとも理解できます。頭で何かを汲もうとするよりも、それ(水)に身や思考をゆだねようとする感じです。

 私の解釈によらず、人によっては蓮如上人のおっしゃる意味を直感的に理解することができる人もいるでしょう。霊的な文章は多様に解釈できますし、それがおもしろくそして奥深いところであります。